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健磐龍命と草部吉見神・その娘阿蘇都媛
更新日: 2019-09-27 (金) 16:36:06 (1635d)
概要
草部吉見神(くさかべよしみがみ)[彦八井命・国龍神]と健磐龍命(たけいわたつのみこと)の父、神八井耳命(かむやいみみのみこと)は兄弟で吉見神は兄にあたります。
吉見神は神武天皇の命令で治保郷(ちほごう)をおさめることになりました。
(阿蘇郡内にはその頃、治保郷の外、波良・衣尻・阿曾等の郷があり、一の宮町は阿曾郷に属していたと思われます。)まず、吉見神は草部の村々に現れる大蛇を退治することにしました。
大蛇は大きな池(吉ノ池)に住んでいて、夜になると作物を荒らしたり人を傷つけたりしていました。ときには家を壊してしまうこともあって、人々は安心して休むことも出来ませんでした。
勇気のある吉見神は、格闘の末その大蛇を退治しました。
傷を負った大蛇が逃げ回った跡を血引原。大蛇の亡骸を焼いて、その肺が残ったといわれる場所が灰原だと言い伝えられています。
草部という地名は、吉見神の住まいが、草を束ねて壁を作ったいうことから付けられたとも言われています。その頃はまだ、丘や山の斜面に穴を掘って人が住む横穴式の住居が多かったようですから、草で囲った家の形式の始まりだったのかもしれません。草部吉見神社の社記によると(国龍神は神八井耳命の兄)(草やねの館を作ったことから草部)と記されています。
一方、健磐龍命は九州中部を治めるため、山城の国宇治から海を渡り、日向の国(宮崎県)を経て、九州の真ん中である阿蘇地方に向かいました。
まず、宮崎県延岡の方から五ヶ瀬川を遡って御嶽山のふもとにしばらく居を定めました。それが御岳村の起こりだといいます。成君・稲生原・逆椿・塔の原・村雨坂・日暮坂などは命が村々を廻られた時の縁の地として付けられた名前だといいます。
また、馬見原には幣立宮を建てられ「天つ神」「国つ神」を祀られたそうです。御岳から健磐龍命は、伯父の吉見神が住まわれる草部にやってこられました。
そこで、吉見神の娘である阿蘇都媛に出会いました。健磐龍命は媛と仲良くなり、妻として迎えることになりました。
阿蘇外輪の北東部にあたる産山には、健磐龍命のご嫡孫誕生に由来する地名が今も残っています。御湯船、柄杓田、平川などの地名もご嫡孫誕生ゆかりの地名だと伝えられており、産湯を使った時の湯船、要らなくなった柄杓(ひしゃく)を投げられたことから柄杓田、産湯を沸かした平釜が訛って平川になったそうです。
産山は、宇父山・生産山などと書かれたこともあって「うぶのやま」と言われていました。
参考
嫡孫は健磐龍命の長男の、その長男を指すので十一の宮・速瓶玉の御子ということになりますが、阿蘇の神話、また言い伝え等が、その地に伝わって行く前に、他の場所での伝わり方と違った形になったこともあり、健磐龍命の御子という考え方もあるようです。
索引 : た
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