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噴火災害

中岳

日頃は美しい景観を見せている火山も、いったん活動が活発になり噴火がおこれば、周辺住民の生活や生産活動に被害を与えます。
爆発や噴火に伴う被害は、大別すると、噴石によるもの、小規模な低温火砕流によるもの、多量の降灰によるものなどがあります。そのほか、必ずしも爆発や噴火に伴わない被害として、火山ガスによるものがあります。
被害の程度には大小あるが、ほぼ数年に一度は何らかの被害が出ていることがわかります。

発生年西暦噴火と被害の様子
昭和2年1927噴火:4~5月に数回噴火、降灰。農作物に被害
昭和4年1928噴火:4月11日第4火口で噴石。7月26日第2火口に新火口、噴煙、10月降灰多量。農作物被害。牛馬倒死
昭和7年1932噴火:12月第1火口赤熱隕石・降灰。空振で測候所の窓ガラス破損。河口付近で負傷者13人
昭和8年1933噴火:近年の大活動。2・3月第2・1火口活動多量の赤熱噴石と降灰。降灰被害も広範囲
昭和15年1940爆発:4月負傷者1人。八月降灰多量、農作物に被害
昭和22年1947噴火:5月第1火口噴火、降灰砂多量。農作物、牛馬200頭余り死亡
昭和28年1953爆発:4月27日第1火口爆発、死者6人、負傷者90余人
昭和33年1958爆発:6月24日夜第1火口爆発、降灰多量、山上広場に低温火砕流、死者12人、負傷者28人。山上広場の建物に大被害
昭和40年1965噴火:10月31日第1火口爆発的噴火、建物に被害
昭和49年1974噴火:4~8月第1火口噴火、降灰、農作物に被害
昭和54年1979爆発:6~11月第1火口噴火、降灰950万㌧、農作物に被害。9月6日爆発、北東方向に噴石と低温火砕流、火口東駅付近で死者3人、負傷者11人
平成元年1989噴火:降灰多量、農作物被害。白川の魚大量死。1人死亡
平成2年1990噴火:4月20日爆発的噴火、火山灰120万㌧。火砕サージ発生。降灰多量、農作物被害。着灰で一の宮町を中心に3,700戸停電。3人死亡
平成6年19941人死亡
平成9年19972人死亡

噴石による被害

中岳火口の近くでは、爆発に伴う噴石による被害が目立ちます。爆発は、火口底まで上昇したマグマの発泡による場合(マグマの爆発)と、活動中の火口が雨水を含んだ土砂によって閉塞した時に起こる水蒸気爆発またはマグマ水蒸気爆発による場合があります。噴石には、噴火で火口周辺に飛散した火山弾や火山礫、火山岩塊などがあり、阿蘇山測候所では、爆発の度にこぶし大の噴石の分布を調べています。噴石はちょうど大砲の弾を打ち出すのに似ていて放物線を描いて飛行します。実際には、爆発はすり鉢状または円筒状の火口底起こるので、その位置によって噴出の方向が決まってきます。従って噴石の分布は一定ではなく偏る場合が多い。
最近の爆発に伴う噴石の分布は、第一火口から約1㌖程度の範囲に集中しています。火口から1㌖程度の範囲に集中しています。火口から1㌖を大きく越えた例は、昭和8年(1933)、昭和33年(1958)、昭和54年(1979)の3例があります。昭和8年の場合は第2火口も噴火したため、南側に広がったものと考えられます。また、ほかの2例は低温火砕流によって運ばれたため、山上広場や火口東駅まで達したものです。

年代別

昭和7~8年(1932~33)の噴火

昭和7年から8年にかけての中岳の噴火は、第1火口と第2火口が相次いで爆発するという、有史以来の大噴火でした。この噴火はマグマが火口底まで上昇し、その頭が見える状態での噴火でした。
昭和7年(1932)12月18日の噴火では火口付近で13人が負傷しています。12月17、18日の第1火口の噴火の様子を熊本測候所は次のように記しています。
「この両日は活動従前に加えて、強烈となり終日250㍍位の高さに大小無数の石を噴上げ、主に第一火口付近の壁上に飛散す、その大きさは直径15(せんち)位のもの多きも最大なるは1米を越ゆるものあり、坊中にては夜間火柱を望見し、鳴動激しく戸障子振動し、就中18日のごときは日暮れて空に月なく星麗しく輝くころ坊中より南方を見るに火柱百米位天に冲し真紅に焼けし大小の石、飛散してあたかも花火を打ち眺むるが如し、而して時々思い出したる如く『ドーウン』で鈍音をたてては山麓坊中付近の民家の戸障子を震わす。この両日の活動は今回活動中の最盛と思われ誠に阿蘇山の真価を発揮せり」。
翌昭和8年(1933)も引き続き活発に噴火しました。第1火口、第2火口ともに活発で、観察記述には次のように記されています。
「当時第1火口は鳴動連続して黒灰色煙に混じて赤熱溶岩片を火口底からニ百~三百米の高さまで打ち上げたが、第二火口は累々たる焼石で被われていた。暫く待っていると、第二火口底凹地から直径20米の真紅の溶岩柱が地中から上昇してきました。その頂部は饅頭笠のような形をして十米ほど地上に上昇した頃、その頂部に亀裂ができて丁度カルメラ焼のような形になり『ドーウン』という大音響と共に、この溶岩柱が吹き飛ばされ、溶岩塊片となって火口の内外四辺に放出された」
一連の噴火で最大級の噴石は、昭和8年2月27日、第二火口から放出されました。同火口の南西約150㍍の火口縁上に落下したものは、直径3㍍、高さ1㍍にも及び、「丸昭八」と名付けられました。また、同火口の西450㍍の斜面に落下したものは「平昭八」と呼ばれ、長径7.2㍍、短径5.6㍍、高さ0.8㍍の大きさでした。
2月下旬から三月上旬の約10日間の爆発による降灰量は約1600万トンに達するとされています爆音聴取区域に至っては、九州中部のほぼ全域に及んでおり、噴火の規模の大きさがうかがわれます。当時宮地小学校では爆発に備えた避難訓練を度々行っていたそうです。

昭和28年(1953)の爆発

中岳第一火口は、昭和28年(1953)4月16日頃には、赤熱状態を呈していたが、27日11時31分に突然爆発しました。
この爆発では、多量の赤熱噴石を伴う噴煙が高さ600㍍まで噴き上げました。最大の噴石は人身大に及び、その他、人頭大~こぶし大のものが、火口の西から南西側約800㍍一帯に落下しました。
この時には、火口縁付近には多くの火口見物客があり、死者6人、負傷者90余人を出しました。なお、当時は現在のような火口周辺への立ち入りを規制する制度や組織は確立していませんでした。

低温火砕流

中岳では、閉塞した火口から水蒸気爆発またはマグマ水蒸気爆発が起き、小規模な低温の火砕流が発生することがあります。昭和33年(1958)と昭和54年(1979)の噴火では低温火砕流が発生しました。

昭和54年(1979)

中岳第1火口は昭和54年(1979)6月から、火山灰や赤熱したスコリアを噴出する噴火を続けていました。しかし、8月26・27日の台風11号による161㍉の大雨で、火口に土砂が流れ込み閉塞しました。その後も土砂の流入があり、10日間ほど閉塞状態が続いていましたが、9月6日13時6分、突然水蒸気爆発をおこし、火口東駅付近で死者3人、負傷者11人を出しました。爆発の一ヶ月後には再び赤熱噴石を放出する噴火に戻りました。9月6日の爆発による噴出物には、本質物はほとんど含まれていませんでしたが、その移動・堆積様式には3種類ありました。岩塊の放出と弾道落下、上昇した噴煙柱が風に流された降灰、および山腹を覆うように高速で流れた小規模な低温火砕流です。このときに発生した火砕流は高温の岩塊を含んでいたものの、全体はおそらく100度以下であったと考えられています。
低温火砕流は、火口から馬の背方向と火口東駅方向に流下したことが目撃され、記録されました。また、爆発時、火口東駅には20数人の観光客などがいて、ドアや窓枠を破壊して建物の中に侵入した低温火砕流のため危険にさらされました。

昭和33年(1958)

昭和33年(1958)6月24日、22時15分、中岳第1火口が爆発しました。
爆発前の第1火口は火山灰を噴出する活動が活発であったが、4月からは降雨により埋没していました。爆発は夜間に起きたので噴煙の目撃はありませんでしたが、阿蘇山測候所のある山上広場の被害と堆積物の状況に関する記述から、この爆発が昭和54年(1979)の爆発に酷似していたことが分かっています。横殴りの噴煙(低温火砕流)は火口から約1㌖離れた山上広場を襲いました。
当時の気象について文献によると、自記気圧計に22時15分頃に、全振幅4.8㍊変化、風圧計に毎秒33.5㍍まで記録され、それ以上は計器が故障して記録されていません。
被害の具体的な内容は以下のとおりです。

  • 死者12人、重傷者6人、軽傷者22人。死者はロープウエーの支柱工事中の人夫6人および山上広場付近の倒壊家屋の下敷となった6人
  • 全壊家屋5戸(木造平屋)山上広場(第1火口から南西に約1,000㍍)の火の国茶屋(平屋200坪)ほか4戸、爆風のため倒壊
  • 半壊家屋4戸。ロープウエー火口駅(現火口西駅、第1火口から南に約450㍍)および山上広場付近の家屋
  • 一部破壊家屋4戸。測候所など。火口付近の退避壕の屋根には直径50~100㎝の孔が開いて、鉄筋も一部断ち切られていました。

降灰被害

中岳噴火による降灰は、周辺地域の農林業や畜産業に大きな被害を与えることがあります。降灰による被害は大きな爆発などの場合に限らず、中岳が活発な活動をしている場合にはしばしば生じています。
中岳の場合、噴煙の高度が低いことが多く、地上風の風下へ火山灰が流れる場合が多くなります。したがって、その時の風向きによってどちらの方向でも被害を受けますが、上空では西風が卓越するため波野村を中心とした東側がより深刻となります。
降灰被害として停電被害があります。平成2年(1990)の爆発的な噴火で一の宮町を中心に多量に降灰があり、約3,700戸が停電した。これは、湿った火山灰が柱状トランスなどに付着してショートしたためです。停電の原因発生地域は火山灰が約1㎜の厚さに堆積した地域とぴったり一致していました。この時の経験から、阿蘇カルデラ内では着灰による事故の防止のための改良が加えられました。
降灰といえば、その後の降雨による土石流が想定されますが、阿蘇地方では一時的な降灰による土石流は、特に起きていない。しかし、火山灰が細粒であったり、多量の粘土鉱物が混じっている場合には、降雨による増水時に白川などで泥水のために大量の魚が死ぬ被害が生じます。

ガス道

中岳周辺では火山ガスによってミヤマキリシマなどに被害が発生することがあります。
昭和54年(1979)には火山ガスによって中岳の南西側で杉林が枯れる被害が発生しました。この被害の調査結果から、ガスが流れた跡、いわゆる「ガス道」が推定されました。
中岳火口付近では最近、火山ガスが引き金となって死亡する事故が起きています。火口から放出されている火山ガスはほとんどが水蒸気であるが、少量の有毒なガスを含んでいます。被害を引き起こしているガスはSO2(亜硫酸ガス)とされていますが、健康な人の被害はほとんどなく、何らかの持病をのある人が多いようです。しかし、平成元年(1989)から平成9年(1997)までの間に7人の死者が出ていることは、中岳周辺での火山ガスに対する危険性の認識と対策が必要であることを示している。平成10年(1998)から、阿蘇火山防災会議協議会は本格的に火口周辺のガスの監視と規制の体制を見直しています。

参考

阿蘇火山の生い立ち

カテゴリ : 阿蘇の自然
索引 :

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