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坂梨御茶屋

概要

当時、大名行列は阿蘇神社の裏を迂回し、神社西側をそっと通過して南に回り、坂梨集落の入口に近い平口にあった坂梨御茶屋(市原家)に着く。付近には十三里木の里程木があり、熊本城下からおよそ十三里(52㎞)の距離にあることを示していました。
御茶屋で昼食を済ませた一行は、東外輪山の急坂を登ります。この滝室坂は「大阪に坂無し、坂梨に坂有り」(西遊雑記)と言われたように、天下に知れ渡った急勾配の難所です。往時の石畳が残っており、現在ではその一部が「豊後街道歴史の道」として整備されています。この滝室坂一帯の外輪山にも多くの湧水が見られ、阿蘇谷を流れる黒川の水源となっています。滝室坂の一里半の峻険な道を登りきると、そこは「坂の上」である。苦しかった急坂を上がってきた旅人にはさぞかし実感のこもった地名であったことでしょう。
ここで藩主は駕籠を止め、行列は小休止をしました。またこの場所は、参勤交代の行列で使役される坂梨手永と久住手永の公役の人足が交代する地点でもありました。
行列はさらに、笹倉・大利(産山)へと進み、いよいよ肥後の国を離れて、大分県の久住(当時は肥後藩領)へと進み、豊後の国へ入ることになります。
豊後街道は、江戸時代には肥後と豊後、さらには上方(近畿地方一帯を指す語)や江戸を結ぶ重要な交通路で、九州を横断する当時の一級国道でした。このため石畳や宿場なども整備され、街道沿いの至る所に名所旧跡が残っています。阿蘇、久住のスケールの大きい原野・山岳地帯を抜けるコースであるとともに、豊富な水に恵まれた名水街道でもありました。

参考

阿蘇一の宮町史 阿蘇山と水

カテゴリ : 文化・歴史
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