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水害

洪水の危険性

阿蘇山の年間降水量が多いことは、雨の振り方によっては洪水の危険性が高いことでもあります。加えて阿蘇地域は火山灰土壌で厚く覆われています。大雨が降ると、大量の水分を含んだ土は重くなり流動性を増します。そのために侵食が起こり、斜面は崩壊して、降り積もっていた火山灰も巻き込んで、流域一帯へ泥水害をもたらすことになります。

日本はアジア大陸の東の端に位置し、気候学的にはアジアモンスーン地帯に属しています。九州付近に豪雨をもたらす雲は、気象衛星「ひまわり」で見ると、大陸東岸から九州へ進んでくることが多い。その雲が九州上空へ線状に伸び、雨雲が発達して停滞すると、局地的な集中豪雨をもたらします。日降水量が100㍉前後になると水の被害が出始めます。「熊本の気象百年」によると、熊本、人吉、阿蘇山における統計期間中の「要素別順位表」に見られる”雨の降り方”は以下のようになります。

阿蘇山は年間降水量が圧倒的に多いだけでなく、集中豪雨も他の2地区に比べて激しいことがわかります。この結果、阿蘇谷は過去、幾多の水害を受けていますが、一の宮町にとって最悪ともいえる水害が平成2年7月に起こりました。

平成2年の大水害

平成2年7月1日、九州南部に停滞していた梅雨前線が北上して活発化しました。一方、東シナ海の低気圧も北部九州に接近し、熊本県では県北部及び阿蘇地方を中心として、同日の深夜から集中豪雨に見舞われました。この雨は2日の夕方迄降り続きました。7月2日には阿蘇乙姫で448㍉、阿蘇山測候所では338.5㍉(累計4位)の日降水量を記録しました。1時間雨量でみると阿蘇乙姫で7月2日の午前9時に57㍉、10時に67㍉、11時に65㍉と、1時間降水量40㍉以上の豪雨が連続して観測されました。このとき一の宮では1時間雨量が71㍉にも達し、7月1日から2日までの連続雨量も620㍉に達する大雨となりました。
一の宮町(現:阿蘇市一の宮町)が発行した『平成2年7月2日一の宮町大水害の記録』(平成7年3月発行)には次のように書かれています。
「阿蘇地方は6月28日から7月3日にかけての梅雨前線の活発な活動で、記録的な豪雨となり、大きな被害を被ることになった。特に7月2日の午前5時から同8時までの3時間の降水量は、阿蘇乙姫で91ミリを観測した。
2日の大雨は、九州地方が太平洋高気圧の周辺部に当たり、梅雨前線が熊本地方の北部及び阿蘇地方で停滞したこと、これに外輪山の山腹を滑昇する地形効果も加わって起こった。1時間に60㍉前後の激しい雨が数時間も続くという降り方が特徴だった。日降水量は熊本地方の北部から阿蘇地方にかけては230~450㍉となった」
この豪雨によって一の宮町では2日午前9時過ぎに黒川上流の根子岳・高岳の山腹で土石流が発生し、大量の流木とともに下流の坂梨地区などに押し寄せました。この災害によって死者11人、負傷者12人と尊い命が多数失われました。住宅の被害は家屋全壊83棟、半壊61棟、床上浸水157棟、床下浸水は650世帯に及びました。
物的被害は林業関係の約140億円を筆頭に、家屋34億円、公共土木施設29億円、農業関係29億円など総額240億円という額に達しました。この被害額は平成2年度の町予算の約10倍に達します。わずか数時間の雨でこのような大被害が発生したことは、古今未曾有のことでした。

  • 都市的被害・・・国道をはじめ道路や鉄道の冠水・崩壊による交通のマヒが起きた。
  • 土石流災害・・・阿蘇山や東外輪山の山腹の崩壊と土石流による住宅地・耕地の埋没。
  • 流木災害・・・山腹崩壊は流域の林地を巻き込み、流木は古恵川にかかる松原橋の橋げたでせき止められ、たちまち4、5㍍の高さとなりました。このため土石流は橋の東西に流れ出し、国道沿線500㍍にわたって住宅地を襲うことになりました。流木の数は2万本とされ、流木災害の怖さが認識されました。
  • 人的被害・・・水害の発生が午前中で学校の登校後であったため、児童生徒の犠牲者が出なかったことは不幸中の幸いでした。一方、犠牲者は高齢者が多く、今後高齢化社会での災害時対応に大きな問題提起となりました。
    この災害により大きな被害にあった一の宮町は、1日も早い復旧をと当時の市原典太町長を先頭に役場、議会、町民が一丸となって対策にあたりました。特に、生活用水の確保については町の要請により、陸上自衛隊、一の宮警察署、一の宮町消防団が出動し、給水車を使い湧水を水道断水地区に飲料水として配水しました。
    また、町は防災無線で全町民に水の大切さを強く訴え節水を呼びかけるとともに、汚水や汚染による食中毒発生の予防にも努めました。湧水のある阿蘇神社の「神の泉」には、周辺の住民がこの水を汲むためにバケツやポリタンクを手に終日行列を作りました。こうした役場、議会、町民の心を一つにした復旧活動は国、県、防災機関、各種団体などの協力と相まって、予想外に早く進みました。
    一方、熊本県などにより黒川河川激甚災害対策特別緊急事業等が実施されました。黒川の流下能力の増大を図るため河道内の掘削工事、護岸工事、橋の架け替え工事が、また流出抑制対策として遊水池(阿蘇市内牧)、流木対策として多目的貯木池(一の宮町宮地・坂梨)やスリットダムの建設など、治山、治水の復旧工事が進められました。
    災害の後、災害の学術的な調査研究にそれぞれの専門家による現地調査が行われました。特に流木災害が被害を増大させたことから、植林の樹種や場所についての議論が新聞・テレビ等で議論されました。

昭和28年6月26日の水害

昭和28年6月25日、九州一帯を襲った梅雨前線による豪雨は熊本県内に大きな被害をもたらしました。降り始めの24日から28日までの総雨量は、阿蘇山で750㍉、熊本市で617㍉に達しました。熊本市では白川が氾濫、京町の大地と帯山・健軍方面を除く市街地の大半が一夜のうちに泥海と化したのをはじめ、阿蘇、鹿本、菊池、飽託、益城などの地域でも多大な被害を出しました。対策本部がまとめた県内の被害状況は、死者291人、負傷者557人、行方不明270人、家屋の全壊1,005棟、半壊6,512棟、流失850棟、床上浸水48,987棟、床下浸水39,066棟、道路損壊2,144箇所、橋の流出611箇所、罹災者概数391,680人となっています。
この時の一の宮町の被害状況は、物的被害として床上・床下浸水を若干見る程度で、人的被害も生活用水の被害もなく幸いでした。
しかし、この記録的な降雨は牧野の表層ずれ現象を連続的に起こし、併せて高岳、中岳の山腹に降り積もった火山灰を下流の古恵川、東岳川、黒川へと一挙に押し流し、堤防が決壊、田植えの終わった田畑などは厚い火山灰土に覆われました。各河川の沿岸の宮地町、坂梨村、古城村、中通村をはじめ、下流の関係市町村の田畑などは大きな被害を受けました。
この被害に対し、宮地、坂梨、古城、中通の各町村では、日常の役場業務を必要最小限の業務のみとし、男子職員は消防団員の協力を得て、田畑の排土応急作業に従事し、災害復旧にあたりました。
こうした地道な排土作業と河川などの災害復旧工事により一応の復旧は成りました。しかし、その後、降水などの被害により火山灰土が堆積し、川底が水田より高くなるという現象が生じました。熊本市でも市街地に全面「ヨナ」が堆積し、排土作業は困難を極めました。
草地に生じた被害は、自然草地の崩壊面積1,617㌶、牧道の切断長590㍍、牛の死傷1,000頭、馬の死傷150頭となっています。
この大雨による自然草地崩壊の特徴は水の浸透性のよい表層の火山灰土と、その下にある浸透性の悪い溶岩などとの間に水の層ができ、地滑り的な表層剥離が連続的に起きたことです。この結果、下流の熊本市一帯では火山灰及び砂礫の堆積による泥害で市内一帯に最高2㍍に及ぶ火山灰が堆積しました。当時の新聞は「熊本市の治水の根源は阿蘇にあり」と上流の治水と防災林や水源涵養林の造成の必要性を盛んに提案しました。
ちなみに一の宮町ではほかに、明治33年7月などにも大水害に見舞われ、多くの人命や財産が失われています。水の恵みとともに水害の恐ろしさも忘れてはなりません。


一の宮町の洪水災害年表

参考

阿蘇一の宮町史 阿蘇山と水

カテゴリ : 阿蘇の自然
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