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百瀬葉千助
更新日: 2017-01-05 (木) 18:17:19 (2640d)
概要
阿蘇の草原には、昔からススキやネザサなど長草型の野草が自生していました。これを放牧牛場が食べ、干し草として人々が刈り取り、畜産が営まれてきました。しかし、農業生産性をさらに高めるためには、牛の品種改良とともに、その資料となる野草の改良も重要課題でした。阿蘇でも、明治後期から牧草の導入が検討されていました。
クローバー
明治36年、阿蘇農学校(阿蘇清峰高校の前身)に畜産科が開設され、教師として百瀬葉千助氏(明治6年生まれ)が赴任しました。同氏は札幌農学校本科(現・北海道大学農学部)を卒業後、秋田第2中学校で3年間、教鞭をとっていました。動植物に関する詳しい知識を持ち、畜産をはじめ農業全般にも通じていた人です。4年間教師を務めたあと、40年には同校の校長に就任しました。あか牛の品種改良に尽力していた同氏は「どんなにすばらしい血統があったにしても、与える飼料が良くなければ、決して上質の肉牛には育たない」と提唱、自ら牧草の改良を実践しました。母校の札幌農学校からクローバーの種子を取り寄せ、常にポケットに入れて携帯、散歩の時などに道端や畦に蒔いて歩きました。
クローバーは極めて繁殖力の強い多年生の牧草です。百瀬氏の地道な努力が実を結び、それから数年後、毎年春になると阿蘇谷のあちこちでクローバーの白い花が咲き誇りました。牛馬はこのクローバーを好んで食べたそうです。
人々は当初、このクローバーがどのようにして阿蘇谷に植生するようになったか知りませんでした。やがて、それが百瀬氏の地道な活動によって行われたと分かると、百瀬氏に感謝し、大いに尊敬したそうです。
農家の人々はこのクローバーのことを、「百瀬草」と呼んでいました。
今も残る百瀬草
草が野生化して数十年も残るということは、その草の遺伝因子が地域の気象や土壌環境に適合しているからです。つまり、その草が優れた特製を備えているということを意味しています。
昭和30年頃、農林水産省草地試験場は全国の草地試験関係機関に依頼して、各地域に昔から野生する牧草の種子を収集、育種の材料として活用しました。阿蘇からは小堀牧(阿蘇市一の宮町宮地)の白クローバーと、立野(南阿蘇村)付近のトールフェスク(和名=ウシノケグサ)の種子が採集されました。このクローバーが「百瀬草」の子孫とされています。
野生化したクローバーの特徴は茎が短く、3枚の葉が小さい。開花の密度が多いので、5月の開花期には辺り一面に白い花が先ほころびます。6月になるとたくさんの種子をつけ、花が褐色になったころに手のひらで揉むと、黄色の小さな種子が数多く放出されます。
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