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自作農創設政策

占領行政の方針

昭和20年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾した時点では、農業・工業の生産力の崩壊と生活環境の悪化により国民は虚脱状態でした。国民は生活必需品の欠乏に苦しみ、特に食料の絶対的不足による社会不安と混乱があり、社会的破局を防ぐには、食料の増産と確保が国政の最重要課題でした。政府は11月9日「緊急開拓実施要項」を閣議決定し、全国で155万町を開墾し、入植農家100万戸による食糧増産計画を立てました。併せて12月22日には生産者米価1石150円、消費者米価75円に米価引き上げを決定し、米の生産意欲の向上を図りました。
食糧事情の不安定な時期に、全国農業会長会議が開かれ、新農業政策綱領が決議されました。農業による国家生産の基礎を速やかに確立し、農業立国の国是を明確にする論旨でした。
内容は「耕地の適正配分と土地改良や交換分合による集団農地化」で、適正規模農家の育成にありました。この時点では地主の土地解放は表面化していませんでした。
国内における農地解放の論議はまだ低調でしたが、海外では農地改革を要求する世論は、正しく厳しく土地所有の問題を追求していました。9月26日に海外新聞の社説が「農地改革こそ日本民主化への第一歩」という表題で日本の新聞に紹介され、保守派の人々の心臓を寒くしました。「軍部は打撃を受けたが、財閥、官僚、地主は依存存続しており、これに変革を加えるものは米国の積極的制裁か、さもなければ日本の経済的困難時いがいにない。・・・農業改革は日本改革の第一歩であり、農民生活を向上せしめることは日本の工業に対する低賃金労働の給源を断つ・・・」とありポツダム宣言を至上命令とした日本民主化にふさわしい農地改革の施行でした。戦前の地主を解体し、農村内部における地主と小作間の矛盾を基本的に喪失させ、自作農的土地所有を成立させることでした。

政府案と修正

昭和20年(1945)の11月16日の政府閣議に「農地制度改革に関する件」が提出され、若干の修正と追加の跡に閣議決定されました。以後、第八九帝国議会において「農地調整法改正案」(第一次改革案)として12月6日に衆議院会議に上程され、12月29日に法律第64号として公布された後、翌年4月より実施される予定でした。

  1. 小作料の金納化
  2. 耕作権の強化
  3. 農地委員会の民主的改組
  4. 不在地主所有地の全部、材村地主では5㌶を超える部分を5年間で解放

この4点がその骨子ですが、全国で解放対象となる地主は10万戸、解放小作地は90万㌶で、解放率はわずか30%と、極めて緩やかなものでした。
ところが、議会会期中の12月9日、連合国軍総司令部(GHQ)による「農地改革に関する覚書による命令」により促進、改革させられました。

条文

「民主主義傾向の復活と強化に対する経済的障害を除去し、人間の尊厳に対する尊重を確立し且数世紀に亙り封建的圧迫により日本農民を奴隷化してきた経済的束縛を打破するため、日本の土地耕作民をして労働の成果を享受する上に一層均等な機会を得させるべき処置を講ずることを日本帝国政府に指令する。」(以下省略)
それは日本政府による改革案を事実上否定し、翌年3月15日を期限とする新たな改革計画の提出を命令する、との厳しい内容でした。
翌年(1946)4月の連合国対日理事会で農地改革の必要性があらためて強調され、以後、具体的な改革案づくりは対日理事会の場に委ねられました。結局、同年6月の第七回理事会において採択され、日本政府へ勧告されました。これにそった新たな改革案が法制化され、昭和21年(1946)10月11日の議会で成立、21日に公布されました。その骨子は次のとおりです。

  1. 国家買収方式
  2. 不在地主所有地の全部を開放し、在村地主の保有限度は1㌶
  3. 自作地でも平均3㌶超える分も買収
  4. 農地委員会の民主的改組
  5. 改革は2年間で遂行

農地解放は「過酷な手段によらず平和的手段によって」2年間に遂行しようとするものです。したがってその事務は「複雑性及び範囲において、また短期間遂行という事において、民主社会の一般施策において発展されたところの特殊の技能によってはじめて可能」といわれた。表現として興味深いことは、「解放」と「開放」について。農地及び牧野の場合は「解放」、未墾地の場合は「開放」の字が用いられていることです。
*県の指導
農地改革は農民のためのものであり、執行推進の中核である市町村農地委員会の自主的活動に期待するのが理想でしたが、農村の現況において農地制度の改革を急速・完全に遂行するためには、農民組合や農地委員会の活動と共に、整備充実せる官僚の強力な指導が必要とされました。
この空前の大改革への熊本県の対応は、当初、小作官を中心に農業団体も呼応し強力に指導しましたが、国県の抜本的な機構改革として、熊本県庁には「農地部」(農地・開拓・耕地の各課)が新設されました。
中央の農林省には農政局の中に「農地部」が、6地方に農地事務局がそれぞれ新設され、従来の農地行政機構の伝統ある人材の登用が行われました。さらに、指導の重点は農民が農地改革の主体であることを自覚させ、農民自らによって、改革を徹底的に行うことでした。
それも、2年間で完遂しなければならない占領軍の命令は、実務遂行に当たって常に頭上に振りかざされた鞭でした。占領軍の最重点政策の成果に世界の注目が集まりました。

参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

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