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西巖殿寺

[所在]阿蘇市黒川1114番地  [宗派]天台宗比叡山延暦寺の末寺

 由緒は2説あり、ひとつは、神亀3年(726)、天竺舎衛国の最栄が阿蘇山上に来て十一面観音を彫り、仏閣を西の巌殿に安置して祀ったという説。もうひとつは、天養元年(1144)、比叡山慈恵大師の徒最栄が、阿蘇大宮司に請い阿蘇山上で十一面観世音を彫り、火口の西(にし)の巌(いわ)殿(どの)(今の山上本堂の地)で法華経を唱えていたので西巖殿寺と呼んだという説です。

 その後、僧房はその数を増やし繁栄を極め、衆徒20坊、行者17坊、それに51庵の合計88の寺庵が、古坊中に西国の一大宗都を造っていました。ところが、天正年間(1573~1592)の大友・島津の抗争により、草原の中に僧房の礎石と基塔のみを残す有様となり、衰退してしまいました。
 慶長4年(1599)、肥後の国主となった加藤清正は西巌殿寺の復興を志し、散住した僧徒を集めて社領を与え再興しました。また、細川氏も同様に寺領を安堵しました。再興には、長善坊契雅法師の努力が多大であったと伝えられています。

 しかし、明治元年の神仏分離令により寺領安堵の保護もなくなり、永年の宗都も昔日の面影を失ってしまいました。明治4年に阿蘇山上の本堂を現在地に移築して麓本堂としましたが、山上は荒廃してしまったため、明治23年に山上本堂を再建しました。

 残念なことに、平成13年の不審火により、麓本堂は貴重な文化財と共に焼失してしまいましたが、現在も国指定2件、県指定3件、市指定8件の文化財を所蔵する歴史と文化あふれる寺院です。

写真

資料

麓坊中の繁栄を描いた絵図

参考

~文化財を大切に~  みんなで護ろう文化財


カテゴリ : 文化・歴史
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