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豊後街道
更新日: 2011-09-02 (金) 18:22:44 (4582d)
ヨミ
ブンゴガイドウ
豊後街道(参勤交代道)
◎参勤交代とは、江戸時代に幕府が日本を治めるため、全国の大名の家族を江戸に住まわせ、大名の経済力を弱める制度のことです。
全国の大名は、1年おきに大勢のお供を従えて江戸へ出向いていました。
肥後藩の参勤交代のメインルートは、阿蘇市を東西に走る「豊後街道」です。
豊後街道は、熊本~大津~阿蘇を経て、大分の久住~野津原~鶴崎港に達し、距離は約122㎞あります。
鶴崎港からは瀬戸内海航路~東海道~江戸となり、約1,025㎞です。
熊本から江戸までの日数は、早くて27日、悪天候になると55日かかったといわれています。
参勤交代では人と物が行き交い、各地の文化・経済・情報の交流が盛んになりました。
街道沿いには杉並木が植えられ、1里(約4㎞)ごとに塚の上に榎を植えて目安としており、今でも名残として市内の8ヵ所(8~15里)に史跡が伝えられています。
また、参勤交代時の宿泊・休憩施設として、的石・内牧・坂梨・笹倉には「御茶屋」がありました。
参勤時に的石御茶屋で昼食休憩、内牧で宿泊、坂梨で昼食休憩、笹倉では休憩のようです。
特に的石御茶屋跡の間取り・庭園等は、当時のままの様式を残しています。
豊後街道は阿蘇へ入ると、起伏が激しく火山灰土であり、雨が降ると道路の痛みがひどく復旧に手間が掛かっていました。
そのため峠では石畳の道が多くあり、中でも、標高差約190m、距離2㎞の「二重峠の石畳」は見事なものです。
また、滝室坂は豊後街道一の難所と伝えられています。
こうした石畳は、当時から地域住民が頻繁に補修等を行って維持されており、年貢とともに相当な負担であったようです。
近年は、道路網の発達により国道・県道の整備が進み、豊後街道は機能を終え山林中に埋もれていました。しかし、文化庁の補助事業等により歴史の道として整備・復元し、現在は貴重な歴史を伝える文化財として保存されています。
※「参勤」は江戸で幕府のために1年間勤めること、「交代」は勤めを終えて国へ帰ること
豊後街道沿いの市指定文化財(記念物)
旧阿蘇町
豊後街道二重峠石畳
参勤交代道の檜
的石御茶屋跡(庭園)
小糸家の高野槙
産神社の杉
内牧菅原神社の椨
明行寺の公孫樹
〃 枝垂桜
〃 山茱萸
旧波野村
参勤交代道
参勤交代道石畳
茶沸場跡
カヲの墓
十四里塚跡
十五里塚
写真
資料
肥後藩参勤交代行程図
豊後街道経路図
参考
~文化財を大切に~ みんなで護ろう文化財
索引 : ふ
関連語句 : 農耕祭事
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