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財産区水道

概要

坂梨村が敷設した簡易水道事業は、水の豊富な他の三町にとっても大きな魅力でした。坂本村は合併後の水道設備等を考慮し負担増を恐れ財産区として設置することに固執し強調しました。
国道57号が坂梨の集落を抜け滝室坂を上りはじめた東側に、産平神社があります。その鳥居の先に水道記念碑があり碑文にはこう記されています。

碑文

『古来坂梨村ハ飲料水ヲツルベ井戸ニタヨリシモ、年々地下水ガ低下シ深井戸トナリ、ソノ汲ミアゲニ要スル労力ノ可重ト衛生的見地ヨリ、当時ノ村長藤川金久氏ハ村内有志ト計リ議会ノ協賛ヲ得テ水道計画ヲ立テ、国の許可ト援助ヲ受ケ、総工費四百七十二万円ヲ以テ、カネテ乳授ケノ神トシテ崇敬スルココ産平神社ノ神域ヨリ湧キ出ル清水ヲ水源トシテ、昭和二十八年八月竣工、アマネクソノ恩恵ヲ受クルニ至ル。
ソノ後、坂梨村ハ宮地、古城、中通ト合併、一ノ宮町トナリ、本施設ハ坂梨村財産区ノ所管トナル依テ我々ハコノ大事業ト水ノ恩恵ニ感謝シ、本水道ヲ永久ニ維持管理スルコト念ジ、本記念碑ヲ建立ス』

坂梨に水道ができるまでの人々の苦労について、坂梨小学校4年生の児童劇の台詞の一部にかかれています。


「せいや君のうちでは、おふろに入るのは一週間に一度。水くみは子どもの仕事で、つるべというものを使って、井戸から水をくみ、くんだ水は、木の桶に入れて家まで運んでいました。水道がひかれるまでは、坂梨では多くの家庭で井戸水が使われていました。しかし水の量が少なく、十㍍以上も深く掘らないと、水は出てきませんでした。おまけに、何軒かで、ときには、十軒もの家で一つの井戸を使わなければならないところもあったので、水は一滴も無駄にできない、とっても大事なものだったのです。
古閑や神石、福岡などの山つきの集落では、山から湧きでてくる水を使っていました。大きな真竹の中の節を落としたものを何十本もつないで、集落に引き共同で使っていました」
このように、風呂の水を運ぶのは子どもの仕事であり、水を運ぶ労働を節減するため、「沸かしがえし」といわれる風呂を二度沸かして使う知恵や、隣り近所が輪番で風呂を利用する「風呂もらい」の習慣がありました。


参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
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