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阿蘇一揆
更新日: 2012-03-23 (金) 20:35:45 (3305d)
士族反乱と農民一揆
明治10年(1877)の歴史的事件は西南戦争です。西南戦争はその年の2月から9月まで8ヶ月間に及び、熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州各県を戦場として展開した近代日本における最大で最後の国内戦でした。薩摩士族を中心とする反政府軍の武力反乱に対して政府は維新をかけ断固として対処しました。
この西南戦争とほぼ時期を同じくして熊本・大分・長崎の農民は一揆を起こしました。これらの農民一揆は巨大な西南戦争の影に隠されてあまり知られていません。一揆に参加し改定律例で処罰された農民5万人余りは、西郷方に加わり国事犯に問われた薩軍方兵士4万数千人を上回りました。
熊本県内の農民一揆は明治九年末ごろからその兆しが見え、年明け1月下旬には現在の玉名・鹿本・菊池など県北部で高揚しました。これに対し、県は1月23日、集会禁止の布達を出しました。地租改正費や民費の取り扱いに関する疑惑などから戸長・用掛など小区の役人に対する集団交渉がくり返されていました。
この禁止令に対して農民は傍聴と称してなお多人数の集会を繰り返すありさまでした。そのため県は1月27日、再び集会禁止令を出しました。これに対抗して農民たちは兎狩りと称してなおも集会を開いていたので、県は2月2日「多人数会合兎狩等致シ候儀当分差扣可申」と兎狩禁止令を発令しました。数度にわたる集会禁止令を乗り越えて農民たちは粘り強く運動を続けました。しかし、民権党が指導した県北部の戸長征伐も2月下旬、西南戦争開戦前に鎮まりました。
2月下旬から3月にかけて阿蘇郡で大規模な打ちこわしが起こり、同時に上下益城、宇土、八代など県南部で沸騰、3月下旬から4月にかけて天草で軍夫徴用拒否の一揆が展開しました。
明治10年の農民一揆は、最大の士族反乱である西南戦争の状況とかかわりながら展開し、沈静化していきました。
明治10年の熊本・大分・長崎における農民一揆
地域 | 時期 | 参加村数 | 参加人員 | 備考 |
熊本県 | ||||
山本郡 | 1月~2月 | 29村 | 1,648人 | 合志郡を含む |
菊池郡 | 1月~3月 | 26村 | 1,650人 | |
山鹿郡 | 1月~2月 | 34村 | 3,214人 | 戸長征伐 |
玉名郡 | 1月~3月 | 68村 | 5,920人 | 長洲でうちこわし |
阿蘇郡 | 2月~3月 | 111村 | 8,886人 | 打ちこわし |
上益城郡矢部郷 | 2月~3月 | 21村 | 1,136人 | |
上益城郡 | 2月~3月 | 13村 | 892人 | |
下益城郡 | 2月~3月 | 30村 | 1,543人 | 飽田郡を含む |
宇土郡 | 2月~3月 | 34村 | 3,175人 | 一部で打ちこわし |
八代郡 | 1月~3月 | 17村 | 2,961 | |
天草郡 | 3月~4月 | 不明 | 不明 | 軍夫徴用拒否 |
大分県 | ||||
宇佐・下毛・国東・速見の各郡 | 4月1日~5日 | 不明 | 計約2万人 | 打ちこわし、放火 |
長崎県 | ||||
島原半島 | 4月~6月 | 不明 | 不明 | 軍夫徴用拒否 |
農民の要求
阿蘇の農民たちが一揆という集団行動を行ったのは自らの要求を実現するためでした。その要求内容は多様で、それらの要求をまとめて書き留めた文書は発見されていません。のちの裁判の過程で作成された一揆参加者の口供書によると以下のものでした。
- 戸長・用掛に対する要求
- 戸長らが取り扱った租税などに対する疑惑解明の要求
- 地租改正費など民費の取り立て疑惑
- 納入した貢納金や学校寄付金の成行
- 明治8年以来の貢租精算・課金の割り戻し
- 一村割や用掛増給疑惑
- 戸長詰所取り扱いの煙草代精算
- 野開増税取り調べ
- 温泉の割賦金成行
- 江戸時代に由来する金銭精算の要求
- 郷備金の取り下げ
- 御客屋売却や久住旧会所売り払い・元庄屋宅売り払いの代金請求
- 人馬賃銭・産物益銭・籾代金などの成行
- 戸長らが取り扱った租税などに対する疑惑解明の要求
- 地主や高利貸に対する要求
- 借立米の拝借
- 貧民への救助米差し出し
- 他村民へ耕作させている土地を村内困窮者への耕作
- 金子借用証文取り戻し、利子の引き下げ
- 地所質入書入証文の取り戻し
- 頼母子講の減じ方
このように農民の要求は地域の特性とも結び多様なものが有りました.
阿蘇地方全体に共通する主な要求は、戸長に対する郷備金取り下げおよび民費についての疑惑、地主や高利貸しに対する借金捨方・利子引き下げおよび地所質入書入証文の取り戻しを中心としています。
郷備金は江戸時代、各手永で積み立てていた会所の官銭で明治初年郷に引く継がれていました。郷備金取り下げについて赤馬場村(現・南小国町)の北里清紀は口供書で「熊本管内騒擾ノ際ニ付、1ヶ所ニ数千円の金円ヲ取纏メ置キ何様ノ掠奪ニ逢ヒ候モ難量」と述べています。郷備金が掠奪されるのを防ぐために取り下げたいというのは表向きの理由で、農民にとって郷備金は本来民衆のものと意識されていたので取り下げたいというのが本音でした。
民費は地方税的な租税で、民自らの経費という性格のものでした。熊本県の民費の総額は、明治9年は517,148円余です。これは実学党政権最後の年である明治6年(248,779円余)の2倍以上です。民費は明治7、8、9年と増徴されてきました。明治9年の主な支出項目は、区戸長以下給料(30.4%)、地券調費・地租改正費(29%)、道路堤防・橋梁修繕費(10.5%)、学校費(9.2%)などです。この民費は戸長・用掛を通じて徴収されたので民費増微に対する不満および民費取り扱いに対する疑惑は戸長・用掛に向けられました。
地主や高利貸しに対する要求は一時的には貫徹されました。6月12日の県布達は「富家ニ迫リ其家屋を破毀シ金殻借用証文并地所質入書入証文等取返シ、或ハ借金捨方・利下ケ・年賦成潰シ・質物取戻シ等ノ脅迫暴挙ニ及ヒ候ヨリ不得止一時其意ニ応シタル者モ有之哉ニ相聞」と述べています。
しかし、これは「多勢ヲ似脅迫返還候儀以ノ外ノ事」なので「証分其外金主々々へ差返すよう心得べし」と布達をだしました。これによって取り戻した借用証文などは元に返却されました。
参考
カテゴリ : 文化・歴史索引 : あ
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