ホーム > 阿蘇一揆と産業

阿蘇一揆と産業

概要

人口

明治10年(1877)の阿蘇郡の総人口が64,709人、戸数13,362戸でした。明治10年の人口が100人以上の町村が阿蘇郡内に12町村あり、このうち内牧は前年に比べ人口は56人増加しています。内牧は郡内で最も人口、戸数が多い町であり、江戸時代以来宿場町として繁栄し、坂梨、宮原、馬見原、高森、津留とともに交通の要衝でした。坊中と宮地は門前町として栄えてきました。こうして江戸時代以来、行政や交通の中心地には人口が集中しており、六小区の波野郷を除いて各小区に1ヶ所の人口集中地がみられ、その半数は戸長役場の所在地でもありました。

産物

阿蘇郡における明治10年の農産物は、米穀類を除き商品作物をみると県下郡別の生産額において阿蘇郡は葉煙草と菜種は第1位、製茶は第2位(1位は八代郡)です。このうち煙草は50万斤以上生産する全国11郡のうち、下野(栃木県)那須郡(1,786,000斤)、磐城(福島県)田村郡(877,000斤)に次いで阿蘇郡は第3位(749,000斤)を占めていました。阿蘇郡の葉煙草はすでに嘉永年間長崎から海外に輸出されていました。明治6年2月、阿蘇商社が南郷谷の有志や富豪30余人の出費(4万円、現在の価値で8億円)を得て設立されました。阿蘇商社が集荷した葉煙草とその製品は海外に輸出されていました。明治9年には米国フィラデルフィアの万国博覧会に葉煙草と巻煙草を出展し褒状を受けています。
阿蘇の葉煙草生産に重要な役割を果たしていた阿蘇商社は明治27年ごろには衰退しています。
製茶をみると、県は廃藩置県後、阿蘇郡宮原(現・小国町)に製茶伝習所を置き、製茶改良を指導していました。
阿蘇郡は米の半等収量の低さを食糧においては玉蜀黍(とうもろこし)によって補い、経済的には煙草、菜種、茶などの商品作物栽培によって補っていました。これらの栽培は、幕末期になりやっと郷土身分を得た自作農や自小作農によって担われていました。これらの農民層は旧来の地主・高利貸しと対抗関係にありました。
阿蘇一揆はこれらの新興金納郷土や村内上層の農民を指導層とし、村方の小作貧農や町方の日雇職人層など下層民を主体として世直し的な性格をもった農民一揆として展開しました。

生産物生産量単位の価金額
42,309石1874円429187,387円389
糯米4,004石5064円60918,456円768
大麦3,019石2811円5224,595円345
小麦3,596石6572円78310,009円496
稞麦7,947石5562円45719,527円145
6,590石0052円12213,983円990
119石4981円842220円115
11,092石0071円32914,741円277
大豆5,731石9214円40525,249円112
蕎麦2,461石9001円3543,333円412
蜀黍53石9002円313124円670
玉蜀黍2,831,344斤00円005816,421円795
甘藷1,664,652斤50円00528,656円193
馬鈴薯11,092斤50円00777円647
53斤0650円9449円881
2,448斤00円302739円296
生糸239斤456円3681,524円817
藍葉6,198斤00円412,541円180
製茶50,212斤50円37277,285円585
楮皮82,978斤00円0393,236円142
葉煙草749,420斤50円37277,285円585
菜種17,077石5513円67962,828円310
人参1,845斤01円432,638円350
椎茸4,382斤00円341,489円880
蜂蜜1,320斤00円04964円680

参考

西南戦争と阿蘇

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

このページのURL:

TOP