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阿蘇山の歴史

概要

活火山として、その規模を世界に(ほこ)る阿蘇のカルデラは、中央に阿蘇の五岳と言われる「根子岳・1433m」や「高岳・1592.3m(ヒゴクニ)」と、大きな火口に火を噴く「中岳・1506m」さらに「烏帽子岳・1336.7m(どんべえ岳)」と「杵島岳・1326m」その他の山によって、阿蘇の「カルデラ」は大きく2分された形となり、阿蘇の五岳の北側を「阿蘇谷」と呼んでおり、南側を「南郷谷」と呼んでいます。
この2つの谷には、それぞれに広大な平野があって、それぞれの平野には河川が流れ、阿蘇谷の流れは「黒川」南郷谷は「白川」と言い、2つの川の流れは、立野の火口瀬を下った所で合流し、白川となって、熊本平野に流れています。
阿蘇の五岳と2つの平野を、総括的に包むように外輪山が、海抜900mから1,000mの高い山なみををなし屏風を立てたように切り立つ岩場の景観は、阿蘇を訪れた人びとの心を楽しませ、それぞれの思いをめぐらせてくれているようです。

カルデラを取りまく外輪山はその長さが、118kmにおよび、その円周の直径は南北に25km、東西に18㎞もあって「阿蘇の山々の雄大な自然の美しさはその深みを知らず」と旅人の心をとらえていますが阿蘇山という嶺の山はありません。
阿蘇の五岳と共にある山々を&ryby(そうしょう){総称};して阿蘇山と呼んでいます。それと言うのも分析によれば、阿蘇山の誕生に係る大爆発は35万年前から9万年前までに4回あり、莫大な量の噴出物を出し、3万年ほど前に大陥没を起こしてカルデラが形成されました。
外輪山を裾野ととする阿蘇山という山は、富士山よりも高く大きな山だったのかもしれませんが、外輪山をお山の裾野とする今一つの大きな阿蘇山を想像すると、その姿が理解できます。
そのような大きな山の爆発で噴出した溶岩が流れた痕跡は広く、四国の宇和島から山口県の宇部や、福岡県の筑豊地区、宮崎県は高千穂から大分県の臼杵や耶馬渓、県内は天草や人吉、八代方面までもその痕跡が残されています。
3万年前に陥没してできたカルデラの中には、その後も小規模ながら噴火を続けて現在の阿蘇五岳が誕生しました。
阿蘇五岳を中心とする、周囲の広大な平野には長い年月をかけて、雨水が満たされていったことでしょう、満たされた水も北と南に走る活断層の間に窪地ができて河口瀬となり、そうして水没していた平地はだんだん姿を現し、外輪山は山津波で土砂がくずれこみ、現状へと変化してきました。
五岳によって2つに分けられたカルデラは、それぞれに平野を造成し、広大な平野には河川が流れて、それぞれに滝があります。黒川には「数鹿流ヶ滝」が立野の河口瀬にあります。
白川には「鮎返りの滝」が栃木温泉にあり、阿蘇地方は平坦地のように見えても、海抜は400mから500mもあります。
阿蘇の五岳は根子岳を除けば、山の姿はたいへんなだらかなように見えます。特に往生岳から、立野の方面にかけては、広いなだらかな原野の流れが広がり、富士の裾野のようで女性的。優しさを伺わせるものすらあります。しかし、高岳の「鷲ヶ峰(わしがみね)」や「虎ヶ峰(とらがみね)」さらに、根子岳の「天狗岩(てんぐいわ)」等の岸壁はロッククライミングの愛好家に利用されていますが、気象条件の変化が激しいことなどもあって、登山者の遭難事故がしばしば起きています。

阿蘇の外輪山の外側を「端辺(はたべ)」とも言いますが、この端辺にはあちらこちらで「縄文土器」が発見されています。さらに、外輪山の内側に入ると、その裾野にそった地域に、縄文後期の土器が数多く発見されています。
谷内の平坦部には弥生時代の住居跡があって、土器、その他の生活用具等々が数多く出土しています。
記録では阿蘇の中岳が噴火した記録は、552年欽明天皇の代のものが最も古く、阿蘇谷の永草や赤水方面にまで岩石を吹き上げ被害を被っています。また、796年に「神霊池の水、二十丈減」という記録と、さらに840年には「神霊池の水、四十丈減」という記録があります。

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カテゴリ : 文化・歴史
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