ホーム > 矢村社(やむらしゃ)と矢島(やしま)、振石(ふりいし)が谷(たに)

矢村社(やむらしゃ)と矢島(やしま)、振石(ふりいし)が谷(たに)

 健磐龍命(たけいわたつのみこと)は阿蘇谷の水を流し出して豊かな田畑を開きました。この大仕事の後、自分の館を決めるため、手野(ての)の高みから空高く矢を放ったのです。

 矢は南の方に飛んで行きました。矢の落ちたところを宮(みや)居(い)と定め、命の館の周りには家々が集まって建ちました。そこが矢村(やむら)です。ムラというのは一つの集まりを指す言葉でしたから、矢の落ちた村を意味します。矢村社と呼ばれる社(やしろ)には、命の放たれた矢がまつってあるといいますが、氏子の人たちに話を聞くと、どこにも見当たらないとのことでした。

 ここを中心に村や町が出来ていきました。今村(いまむら)は矢村社のすぐ隣ですが、今すぐ村ができたというので付けられた名前だといいます。内牧(うちまき)近くの今村も同じです。西町(にしまち)も宮地(みやじ)の矢村の西にできた町なので西町というのです。このように、健磐龍命にちなんだ地名は、大変多いのです。

 命の2番目の御子誕生の時にもやはり矢を射られ、坂梨(さかなし)の矢島に矢が落ちました。その南側の平地に阿蘇津媛(あそつひめ)の産所(さんじょ)を設けられたので、ここを産の平といいます。産さんと呼ばれる産土(うぶすな)神社(じんじゃ)には、お乳がたくさん出ますようにと、お祈りする人達が今でも後を絶たないといいます。

 今では、馬場(ばば)部落(ぶらく)の人々が社を守っておられ、このあたり、滝室坂(たきむろざか)の谷間には豊かな山清水がわきでており、神石(かみいし)・高城(たかじょう)・浄土寺(じょうどうじ)・木喰仏(もくじきぶつ)・大山寺跡(おおやまでらあと)などと神話・伝説・歴史に関わる豊後(ぶんご)街道(かいどう)に沿って、昔を今に語り伝えているのです。

 また、阿蘇神社の西の方に、振石が谷と呼ばれる所がありますが、ここは命と鬼八(きはち)が戦った時、投げられた石が落ちたところというので付けられた名前だといいます。田んぼの中にある大きな石なので、田の持ち主が石を割って取り除こうとした時、急に雷が近くに落ちそうになり石割(いしわり)の仕事を止めなくてはなりませんでした。結局、石をのけることはあきらめたというのです。

参考

くらしのあゆみ 阿蘇 -阿蘇市伝統文化資料集-


カテゴリ : 文化・歴史
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