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草部吉見神(くさかべよしみのかみ)とその娘の阿蘇都媛(あそつひめ)

 草部吉見神(彦八(ひこや)井(いの)命(みこと)・国(くに)龍神(たつのかみ))は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)の父である神八(かむや)井(い)耳(みみの)命(みこと)の弟にあたります。吉見神は、その父神武(じんむ)天皇(てんのう)の命令で治保(ちほ)郷(ごう)を治めることになりました。その頃、阿蘇地方には、治保・波良(はら)・衣尻(いじり)・阿曾(あそ)等の郷がありました。

 吉見神はこの地方にやって来ると、まず草部(くさかべ)の村々にあらわれる大蛇(だいじゃ)を退治することにしました。大蛇は吉ノ池(よしのいけ)にすみ、夜になると作物を荒らしたり人を傷つけたりしたのです。時には家を壊してしまうこともあって、人々は安心して休むこともできませんでした。勇気のある吉見神は格闘(かくとう)の末、その大蛇を退治しました。

 傷を負った大蛇が逃げ回った跡を血引原(ちひきばら)、大蛇のなきがらを焼いてその灰が残ったといわれる場所が灰原(はいばら)だと言い伝えられています。草部という地名は、吉見神の住まいが草を束(たば)ねて壁を作ったということから付けられたといいます。その頃は、丘や山の斜面に穴を掘って人が住む横穴式(よこあなしき)の住居(じゅうきょ)が多かったようですから、草で囲(かこ)った家の形式(けいしき)の始まりだったのかもしれません。草部吉見神社の社記(しゃき)によると「草やねの館(やかた)をつくったことから草部」とあります。

 一方、健磐龍命(たけいわたつのみこと)は九州中部を治めるため、山城国(やましろのくに)(京都府)から海を渡り日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)を経(へ)て、九州の真ん中の阿蘇地方に向かいました。
 まず、宮崎県(みやざきけん)延岡(のべおか)の方から五ヶ瀬川(ごかせがわ)をさかのぼって御嶽山(みたけさん)の麓(ふもと)にしばらく留(とど)まっていました。それが御岳村(みたけむら)の名の起こりだといいます。成君(なりきみ)・逆椿(さかつばき)・村雨坂(むらさめざか)等は命が村々を回った時の、ゆかりの地として付けられた名前だといいます。

 御岳から健磐龍命は、阿蘇の馬見原(まみはら)に入りました。ここに弊立宮(へいたてぐう)を建て天(あま)つ神(かみ)・国(くに)つ神(かみ)を祭られたといいます。幣立宮は宮崎県との県境の高みにあり、ここの境内(けいだい)は杉の大木(たいぼく)に囲まれ、いかにも阿蘇の国づくりが始まったゆかりの地であるという雰囲気(ふんいき)が漂(ただよ)っています。命は、ここからすぐ近くの叔父(おじ)の吉見神の住んでいる草部にやってきました。そこで、吉見神の娘の阿蘇都媛に出会ったのです。
 そして吉見神と共に阿蘇の開拓(かいたく)に努め、留まっているうちに阿蘇都媛と仲良くなり、妻として迎えることになったのです。

参考

くらしのあゆみ 阿蘇 -阿蘇市伝統文化資料集-


カテゴリ : 文化・歴史
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