概要
| 面積 | 位置 | 範囲 | 標高 | ||
| 東経 | 北緯 | 東西 | 南北 | ||
| 77.23㎢ | 130度254分10秒 | 32度50分5秒 | 9Km | 8.5Km | ~1,095m |
参考
熊本県大百科事典
のなりたち

村にいつ頃から人が住んだのかは不明ですが、出土品から推測すると1万年前には人がこの地に住んでいたことは確かなようです。
縄文時代の石器が出土しており、弥生時代の青銅器、鉄器も出土しています。が進むにつれて、狩猟、山の生活から次第に平地に移住したと思われます。
大化の改新(西暦645)大和朝廷は、全国に国と郡を置くが、山西地区はとなり、河原地区は益城郡となり、平安期(西暦794)に入ると、の勢力は県下に広がり、鳥子神社を始め村内の各社に阿蘇の神が祭られました。
天正3年(西暦1575)島津氏が肥後に侵入したとき、鳥子城、門出城が落城。
細川氏が肥後の藩主となると、寛永10年(西暦1633)手永(てなが)の制度を設け、その役所を会所と呼びました。布田地区の上に史跡が今も残っています。
布田手永には南郷谷の西半分と、山西区が入り、河原区は沼山津手永に入る。手永には惣庄屋があり、庄屋、頭百姓などと農民の自治組織をしき、新所地区のような軍事を含んだ足軽鉄砲隊の村もありました。
幕末期(西暦1853)頃が産業・治水・土木等村として一番活動があった。宮山・下小森・布田に堤が出来、河原には新井手・嘉永井手が完成するなど、開墾・開田産業の発達に大きな力となったが、矢野甚兵衛による大切畑の堤の完成は、小森・鳥子方面の水田100haに及び広大な恩恵を与えました。各地区の観音像・薬師堂・地蔵尊・猿田彦大神等の建立がこの時代になされました。
明治4年には熊本県が置かれ、12年には郡町村制がしかれた。明治5年に学制がしかれ、7年には鳥子が創立され、河原では田中の庄屋跡に創立されています。
昭和35年に、山西村と河原村が合併して、が誕生しました。
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更新日: 2015-11-30 (月) 14:49:13 (3705d)



