更新日: 2025-07-17 (木) 17:21:56 (188d)
古から続く祈りの場
火を噴<壮大な阿蘇火山は、古くから自然神としてあがめられてきました。阿蘇中岳の噴火口は周囲4キロと巨大で、激しく白い噴煙を上げる様子を間近で見ることができます。
阿蘇火山信仰
たびたび噴火する阿蘇中岳火口は、古くから「自然神」としてあがめられてきました。
阿蘇山上はかつて山岳仏教の一大霊場でした。37坊と50以上の庵が立ち並び、今では想像できない別世界が広がっていました。阿蘇は健磐龍命という神様が開拓したとされています。
阿蘇は神様と仏様が共存し、1300年にわたって祈りが続けられてきた場所なのです。このガイドブックでは、阿蘇の神様と仏様について解説し、火山信仰文化にまつわる歴史をひもときます。山岳仏教の聖地へ思いをはせてみれば、阿蘇の違う表情が見えてきます。
火口は「神様」だった
中国の隋時代の歴史書に「火を起こす阿蘇山」
阿蘇中岳火口は、古代から「神様」としてあがめられてきました。「阿蘇」の歴史をさかのぼってみると、中国
の隋時代の歴史書、『隋書』倭国伝に「阿蘇山」という言葉が登場します。『隋書』倭国伝は七世紀前後の日本を知る貴重な史料です。隋の時代は聖徳太子の「日出ずる処の天子」で始まる国書により日本と隋の交流が密接となり、使者の見聞が、同書に反映していると言われています。この書にはこう書かれています。阿蘇山という山があり、その山の石が理由もなく、火を起こし天に接すると、民は異常とみなして祈りの祭りを行っている。青く、鶏卵の大きさくらいの如意宝珠(にょいほうじゅ)がある。夜は光り、魚の目玉のようだ。
阿蘇にあるという「如意宝珠」は、仏の教えを象徴する珠として尊ばれています。「西遊記」で孫悟空が持つ「如意棒」と同じ種類です。この歴史書に出てくる山は阿蘇山だけです。火山がない中国からの使節にとって、火を噴く山の話は印象深いものだったのでしょう。また、人びとが阿蘇山に対して信仰を寄せていることが推測されます。
奈良時代の風土記に「五色の波の霊沼」
日本の古文書では阿蘇はどう書かれているのでしょうか。
奈良時代、国ごとに風土記が編纂されましたが、現存するものはわずかで、多くは風土記逸文から引用する形で断片的に残されています。
鎌倉時代に著された『釈日本紀』には、「筑紫風土記」を引用する形で阿蘇山に関するこんな記述があります。
「肥後国関宗県」には関宗岳という禿山があり、頂に「霊沼」があり、時々水が満ちて南より流れて白川に入ると、多くの魚が酔って死ぬ。土地の民は「苦水」と呼ぶ。沼の大きさは縦50丈(1丈は約3メートル)、横100丈、深さは15丈から20丈ある。その渾は清く百尋に及び、波は五色に彩られ、黄金の大綱が間を分けるかのようで、多くの川の水源として水分りをなす。
関宗岳は「地心」にあるので「中岳」といい、「闘宗神宮」であると結んでいます。「霊沼」は幻想的に描かれています。関宗県の民は閲宗岳を土地の神がいる神宮としてあがめていたといえます。
神様の名は「健磐龍命」
健磐龍命の伝説数々立野を蹴破って平地に
奈良時代に「霊沼」と呼ばれていた火口は、平安時代になると「神霊池」という呼び方に変化します。『続日本後紀』には「健磐龍命神霊池」とあり、健磐龍命という神様の神宮とみなされていることがうかがわれます。
神話では、健磐龍命は初代天皇、神武天皇の孫とされます。九州を治めるために都からやってきて、阿蘇都比眸(阿蘇都姫)と結婚して阿蘇大明神となります。
こんな伝説が伝わっています。
かつて阿蘇谷は水をたたえた湖だった。健磐龍命が湖を干して平野にしようと、外輪山を蹴ったが、山が2重の峠になっていたため、最初は破ることができなかった。次に立野を蹴ると水が勢いよく流れて平野をつくることに成功した 。
このとき健磐龍命は勢いあまって尻もちをつき、「余はもう立てぬのう」と言ったため、「立野」という地名になったと伝わります。蹴破れなかったところは「二重峠」という地名が残っています。湖には主の大鯰がいて、湖から流れ清いたところが、現在の嘉島町鯰とされています。
外輪山には、健磐龍命が往生岳の上から的にして弓を射たという「的石」があります。この奇石がある場所は、的石という地名になっています。
火山の活動は「神様の意思」と畏怖
平安時代の『日本後紀』延暦15(796)年の条には、こんなことが書かれています。
阿蘇山上の神霊池と呼ばれている沼の水は増減することがなかった。ところが、なぜか20丈余り(約60メートル)も涸れて減っている。占った結果、旱疫(干ばつ)と出た。
『日本紀略』弘仁14(823)年の条に健磐籠命は「旱魃(かんばつ)に祈れば雨をもたらす、護国救民の神である」と書かれています。健磐龍命は神盪池に宿る神で、神霊池が枯渇することは、旱疫や兵疫(戦いが起きる)などの前兆と受け止められていました。火山の動きは「神の意思」とみなされ、人びとが畏怖の念を持っていたことが分かります。
健磐龍命と阿蘇都比咋は阿蘇山上にまつられる神でした。その後、阿蘇山の麓、宮地に阿蘇社(阿蘇神社)が設けられます。阿蘇社には一宮の健磐龍命、―一宮の阿蘇都比眸をはじめ、12の神がまつられています。
健磐籠命と阿蘇都比咋の了どもの速瓶玉命は十一宮で、国造神社にまつられています。
阿蘇神社と国造神社では毎年七月、「おんだ(御田)祭」が行われます。阿蘇大明神(健磐龍命)が阿蘇開拓と農耕の道を広めたことをたたえ、この時季の稲の育ち具合を神様に見ていただくことで、秋の豊作を願う祭りです。白装束を着た十四人の宇奈利(うなり)が田園を巡ります。阿蘇神社の祭神は12ですが、宇奈利が十四人なのは火の神と水の神を合わせるからです。
国造神社は祭神四に火の神・水の神を合わせて六人の宇奈利です。
奉幣、読経で「噴火鎖め」
火口に御幣を投入する祈祷は千年以上続く
阿蘇山の異変は、国家的な変事の予兆と意識されていました。『日本後紀』延暦15(796)年の条によると、神霊池の枯渇の知らせを受けた朝廷は貧しい民に対して施しを行い、寺々には3日間、読経させました。朝廷が行った神霊池の異変に対する施策の最初の記録です。異変が起こるのは国を治める者の不徳のせいと考えられており、貧しい人びとに施しをすることが求められていたのです。
『続日本後紀』承和7・8(840・841)年の条によれば、神霊池が枯渇したとき、大宰府から朝廷に知らせていました。大宰府は、現在の福岡県太宰府市にあった古代律令時代の役所です。
平安時代の歌人、源俊頼(1055?~1129?)が阿蘇について詠んだ歌があります。
世にわびて浪たちまちに有るなれどあそのみ池に幣たてまつる
(源俊頼「散木奇歌集」)
源俊頼は、阿蘇の御池は世の中によくないことがあれば、突然波が立つので幣を奉ると詠んでいます。十一世紀の都の知識人が阿蘇山の噴火に関心を寄せていたことがうかがわれます。平穏を祈って御幣を火口に投げ入れる「火口鎮祭」は現在も毎年6月に行われています。火口に対する祈りは、千年以上も続いているのです。
朝廷が読経のために各地に僧侶を遣わす
六つの勅撰の国史、六国史の記事を事項別に菅原道真が編纂した『類緊国史(るいじゅこくし)』の延暦13(794)年の条に、阿蘇社での読経に関する初めての記事があります。
豊前国八幡と筑前国宗像と肥後国阿蘇の三社で読経を行うために七人の僧侶を遣わしたー 。
八幡社は現在の大分県宇佐市、宗像社は福岡県宗像市にあります。
阿蘇では神霊池の異変に対して奉幣とともに読経が繰り返されていました。
『続日本後紀』承和5(838)年には、遣唐使の航海安全を祈念するために、25歳以上で仏教に精進する持経者9人が得度者(僧侶)となり、香椎宮・八幡社・宗像社と阿蘇社にそれぞれ2人が置かれたと記されています。
神社で読経を上げると聞くと、違和感を持つ人がいるかもしれません。明治時代に行れた神仏分離の前は、「神仏習合(わしんぶつしゅうごう)」といって、地元の神様に対する信仰と、大陸から伝来した仏教とが密接に結びついていました。
【神仏習合】
日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説です。古来日本では山や海、森などの自然物に神々が宿ると信じられてきました。六世紀に仏教が伝来し、「仏が人々を救うために神という仮の姿で現れる」という説(本地垂迩説)によって、神仏習合は広がり、江戸時代まで続きます。
子どもが生まれたら神社で祈願し、葬式は寺(仏教)で執り行うという人が多いのは、神仏習合の影響という見方もあります。
山林修行の聖地だった
霊山として畏敬された阿蘇修行する僧侶が集まる
日本に大陸から仏教が伝来したのは六世紀ごろです。仏陀の教えの一っに山林修行があります。大宝元(701) 年に公布された大宝律令の「僧尼令」では、僧尼は俗と交わらずに静寂な山で修行するように定められていました。
奈良時代末、僧侶の中から都を捨てて各地の霊山に入って修行に励む者が多くなりました。その中から最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を起こします。ともに山林修行を重んじて、都から離れた比叡山と高野山にそれぞれ寺院を設けました。
天台・真言の密教系山岳仏教が盛んになり、加持祈祷が呪術として重んじられるようになりました。山岳で苦行を重ねた僧侶は験力(げんりょく)が優れているとして尊敬を集めます。各地の山岳に籠って霊験を得ようと修行する僧侶は「行者」と呼ばれるようになりました。
火を噴く阿蘇山は霊山として人々の畏敬の対象であり、密教系の僧侶や呪術修行者たちが験力を得るため、山林修行にふさわしい場所でした。僧侶たちが阿蘇で修行した記録が残っています。
泰澄が阿蘇社に参詣すると九頭龍が出現した
平安時代後期の学者、大江匡房(おおえのまさふさ1041~1111)が著した『本朝神仙伝』には、修験の山として著名な加賀白山(はくざん)の開祖、泰澄(たいちょう)が阿蘇社に参った時のことが書かれています。
泰澄が詣でた時、池上に九つの頭を持つ九頭龍が出現した。泰澄が「真体を示せ」と祈ったところ、金色に輝く三尺の千手観音が夕陽に輝く池の上に現れた。
九頭龍に支配されていましたが、読経したことによって龍の真の姿が千手観音だと明らかになったというわけです。当時、都の人が阿蘇山を神秘的な霊力をもつ山として意識していたことを物語るものでしょう。
九州を代表する修験の山、英彦山の記録である『彦山流記』には、木練上人が阿蘇に登山したときのことが書かれています。
'八種類の功徳を持つ「八功徳水」に満ちた宝池には五色の波が立ち、金色の浜には銀色の砂が敷きつめてある。真珠の木々の間には花が咲き乱れ、阿蘇の荘厳なさまは浄土さながらだ。
色とりどりの様子がうかがえます。木練上人は宝池の主を拝みたいと一心に法華経を上げます。すると十一面観音が現れ、「重い罪があるお前には無理だ」と告げられます。木練が秘密の真言を唱えると闇夜になり、九頭八面の大龍が現れ、のみ込まれそうになった木練が金剛杵(こんごうしょ)を投げると大龍の目に当たり、四方が晴れ渡りました。
帰途、大雨が降ったため小屋に立ち寄ると若い女に惑わされます。女の口にキスをすると舌を切られ、女は大龍となって天に昇ってしまいます。
「再度登山するように」という天の声に促され、登山して懺悔すると十一面観音が蓮華に座って現れ、龍は宝池の主で十一面観音の化身であると説くー。
木練の話からは、法華経信仰と山林修行者の密接な関係がうかがえます。
最栄読師が「阿蘇山」を開く
僧侶たちが集まって「阿蘇山」と呼ばれる
山上には僧侶たちが多く集まって住むようになり、「阿蘇山」と呼ばれるようになります。「阿蘇山」は山の名前であると同時に、宗教空間を意味していました。
宗教空間としての山は、「比叡山」や「高野山」が分かりやすい例です。比叡山延暦寺は天台宗の総本山で開祖は最澄、高野山金剛峯寺は真言宗の総本山で、開祖は空海です。山の名前を聞けば、信仰の対象としての山を思い浮かべると思います。「阿蘇山」も同じような響きを持っていました。
阿蘇山の開祖は最栄とされています。最栄の出身に関しては二つの説があります。
「開祖」とされる最栄読師出自には二つ説がある
―つの説は、最栄は天竺(インド)から来て、神亀三(726年)に阿蘇山を開山したというものです。
噴火口の湯だまり近くに庵を作って修行をしていたところ、九つの頭を持つ九頭龍が現れます。それは阿蘇神社の祭神、健磐龍命の変化した姿でした。
龍は底に姿を変えて火口に飛び込みます。最栄が中をのぞくと、争う亡者たちの仲裁に入る十一面観音菩薩の姿がありました。最栄はそこで見た十一面観音像を彫って、火口の西に位置する洞窟に安置し、寺を開いたとされます。
人びとはこれを西の巌殿(いわと)(洞窟)と呼び、本堂であるとしています。
もう―つの説は、阿蘇家に伝わるものです。最栄は比叡山の慈恵(じえ)大師の徒で、阿蘇大宮司の許可を得て、天養元(1144)年に開山したというものです。慈恵大師は元三大師とも称され、天台宗・比叡山を代表する僧侶です。
最栄は自ら彫刻した十一面観音像を安置して、常に法華経を読誦したので人々が「最栄読師」と呼んだといいます。
十一面観音とはその名の通り、十一の面(顔)を持つ観音像です。苦しんでいる人を救うため、全方向を見守っているといわれています。奈良時代から多くの信仰を集め、つくられてきました。
十一面には悟り、慈悲、憤怒、賛嘆、そして大笑面の五種類の顔があるとされます。火口の神様である健磐龍命の化身とされ、阿蘇山に関する話の中に度々登場します。
山上本堂の内陣には十一面観音、脇侍の不動明王と毘沙門天、外陣には最栄読師と慈恵大師の像が安置されていました。この像は天正11年(1583)11月11日、火山の咽火で押し流されたと伝えられています。
噴火で押し流された像が戻って、再び本堂に安置されたのかどうかは不明ですが、平成の初めごろまで最栄読師と慈恵大師の像は、本堂に置かれていました。後述しますが、本堂は山上から明治四(1871)年に黒川村(現阿蘇市黒川)に移転します。
ところが、残念なことに平成22(2001)年九月22日、火事が発生し、本堂もろとも焼失してしまいました。火事の原因は今でも不明なままです。
この火災で2体の像だけでなく、掛け軸などの貴重な文化財も失われました。2体の像の写真は、熊本県立美術館に残っています。
火口と神の「聖なるライン」
阿蘇大明神を神馬に乗せて上宮から下宮へ迎える
北嶋雪山が寛文年閻(1661~1673)にまとめた『国郡一統志』の阿蘇山の項に、阿蘇の嶺の神池は上宮、阿蘇郡中にまつられている霊社は下宮と呼ばれていると書かれています。上宮は火口の池、下宮は現在
の阿蘇神社を指します。
上宮と下宮という呼び方はいつ頃始まり、その役割はどうなっていたのでしょうか。
健磐龍命の御子神で、国造初代の速瓶玉命(はやみかたまのみこと)をまつっているのが、阿蘇市一の宮町手野の国造神社です。
地図で園造神社と火口を結ぶと、その中間に阿蘇神社があります。古代信仰で重要な場所が直線状に位置する「聖なるライン」があるという見方があります。
神霊池の異変があるたびに奉幣や読経などの神事が執り行われていました。この神事を司祭していたのは阿蘇氏です。阿蘇氏は国造・阿蘇君の系譜を引いています。阿蘇社の神位が上昇するにつれて阿蘇谷から南郷へと勢力を増大し、平安時代後期には大宮司となります。武家領主の性格が強くなり、阿蘇
社の神事は社家集団に任されます。
阿蘇山の麓、現在の阿蘇市一の宮町宮地に社殿が設置された時期は明確には分かりませんが、正平11(1356)年の史料に「近津御宮」、天授3(1377)年に「下宮」と記されています。阿蘇社の神事は下宮が中心となっていきますが、山上の神雹池は上宮として神事は継続されます。
上宮での神事を執り行ったのは、天宮祝と呼ばれる社家でした。
十二月には「駒取りの祭礼」がありました。天宮祝は山上に21日間、下宮では屋立ての女房と呼ばれる大宮司の息女が籠屋100日間、それぞれこもって精進します。祭礼では国府の役人33人が下宮に参拝後、神馬をひいて御嶽に登り、阿蘇大明神を乗せて下宮に下ります。下宮では屋立ての女房がご膳を準備しました。
上宮と下宮の関係を象徴する祭礼だったと推測されます。
天宮祝と僧侶の間で供米や奉幣を巡って争いも
上宮の祭祀をつかさどる天宮祝と、山上に住む僧侶たちの間で争いもありました。
史料によると、建久6(1195)年に天宮祝忠次と僧侶たちとの間で争いが生じ、天宮祝忠次が阿蘇庄の領家に訴えます。これを受け、阿蘇庄の預所職にあった北条時政と推定される平某が、御花米(供米)は住僧等の、その他の奉幣や神馬は天宮祝の取得分と沙汰を下します。天宮祝が僧侶の勢力に押されて
得分を譲歩せざるをえなくなったことを示しています。
阿蘇山上に居住する僧侶がいることを示す最も古い史料でもあります。
噴火は大事件の前兆!?
山上に異変が起きたら衆徒たちが阿蘇氏へ報告
十二世紀の文書からは、山上に居住する僧侶が「衆徒(しゅと)」と呼ばれていたことがわかります。ほかに行者がいて、それぞれの配下に山伏がいました。
衆徒は「阿蘇山衆徒何某」、行者は「阿蘇山行者何某」と名乗っていました。戒律を守って、顕経と密経に精進している僧侶の集団と自負していることがうかがわれます。
征西大将軍宮良成親王から祈祷の依頼もありました。宛先は天授3(1377)年は「阿蘇社衆徒中」、弘和2(1382)年は「阿蘇山衆徒中」となっています。
衆徒たちは、宝池の異変を阿蘇氏に報告しています。神霊池の異変に対して、奉幣や読経などさまざまな神事を執り行っていました。
異変は至徳四(-三八七)年五月に上宮、つまり噴火口の「法施崎」と呼ぶ所に新しい穴が出現します。噴火口は「中の宝池」「北の宝池」「法施崎」と呼ばれていました。
「穴から濁水や砂石が沸騰して高さ一丈余り吹き上げて、鯨が海に泳いでいるかのようであった。閏五月三日卯の刻に俄かに新穴が火口に変化して、黒煙をあげて火石を空高く吹き上げて日を追って勢いを増している」と報告しています。
噴火口の異変は、天下国家の大事件の前兆と意識されていました。江戸時代に作成された「阿蘇山上宮奇瑞(きずい)記抜書」という文書があります。「奇瑞」とは前兆として現れた不思議な現象です。
暦仁元(1238)年12月、御池に蛇が出現し、黒煙と大小の石が吹き上がりました。すると翌年2月、後鳥羽上皇が崩御したと記されています。
さらに「文永弘安の鳴動」についても記しています。
蒙古襲来の「文永の役」(1274年)と「弘安の役」(1281年)のときは、「宝池」が鳴動して大噴火が続いたと書かれています。
噴火口の異変が天下国家の大事件の前兆という考え方は、古代において朝廷が「神霊池」の異変を畏怖して、奉幣・祈祷を繰り返していたことにつながります。「神霊池」から「宝池」という表現に変わり、異変報告は山上に住む衆徒たちが阿蘇山信仰の中心的担い手になったことを象徴しているといえるでしょう。
仏が神の姿で現れる「本地垂迩説」を展開
阿蘇山衆徒たちは至徳5(1388)年、「阿蘇大明神は天下に重大事が起きるときは宝池に種々の怪異を顕し、度々注進してきて数えきれない」と報告しています。僧侶は一層法要に勤め、参詣する人たちは「礼尊」を仰ぎ奉るとしています。
十四世紀には衆徒は、仏が神の姿をとって現れるという本地垂迩(ほんじすいじゃく)説で、阿蘇大明神の信仰を展開していることが推測できます。
阿蘇大明神は本地仏である「十一面観音」の化身とされます。十一面観音像は上宮本堂内殿にまつられ、衆徒が護摩祈祷を行いました。上宮と本堂は一体として捉えられています。
山上本堂にまつられていた十一面観音立像は現在、熊本県立美術館に寄託されています。
【本地垂迩説】
仏や菩薩が人々の前に表れるときにとる仮の姿が神であるとする、古神道と仏教の融合ともいえる考え方です。仏や菩薩が本体(本地)で、日本の神々は仏の化身(垂迩)だとされます。仏教普及のため、神への信仰との対立を避けるために工夫された論理とされます。十一面観音が本地仏で、阿蘇大明神(健磐龍命)は垂迩神です。
噴煙を上げる阿蘇中岳火口。噴火は国家の大事件の予兆と捉えられていました。
火口近く 三十七坊が並ぶ
一大霊場だった「古坊中」読経がこだましていた
草千里ヶ浜から中岳火口に向かう草原は「古坊中(ふるぼうちゅう)」と呼ばれています。
「坊」はお坊さん、つまり僧侶のことです。山岳仏教の一大霊場だったころ、多くの僧侶が住み、読経がこだまし、お香が常にたかれ、ほら貝が吹き嗚らされていました。
最栄が自ら彫刻した十一面観音を安置する本堂を中心にして、三十七坊が設けられました。衆徒と行者にはそれぞれ配下に山伏がいました。「坊」は衆徒や行者の住まい、その下に位置する山伏の住まいが「庵(あん)」です。庵の数は資料が残っておらず、正確には分かりませんが、五十二庵とも、それ以上とも言われています。合わせて数百人ほどが住んでいたと見られています。今では想像できない壮観
な景色が広がっていたことでしょう。
古坊中に関する資料はほとんど残っていませんが、当時の地形が分かる写真があります。旧阿蘇町が昭和32(1957)年12月24日、飛行高度2980メートルから撮影したものです。冬の撮影のため積雪しており、土墨で囲まれた坊の区画がわかります。道も確認できます。
広さは約100~300坪が多く、千坪を超える区画もありました。
修行をする僧侶たちには複数の呼び方と階級がありました。山上の衆徒は大法師・権律師(ごんりつし)・法橋・阿閣梨(あじゃり)などの僧位や僧階を名乗っていました。山上に常住して修行に励む行者(久住)もいました。
衆徒と行者には支配と服従の関係がありました。室町時代のものとされる史料では、行者は衆徒に従順であるべきことを誓い、護摩供料として阿蘇山へ寄進された田地は衆徒の支配であるから衆徒の言い分に従うことなどを誓約しています。
行者と山伏は活動を制約されたため、阿蘇山から離山するという対抗策に出たこともあったそうです。
坊にはそれぞれ名前がつけられ、「成満院(じょうまんいん)」「万福院(まんぷくいん)」「学頭坊(がくとうぽう)」などがありました。坊と坊の間にも格差があり、六坊が棟梁寺、棟梁寺の徒弟の三十一坊を門葉寺と称しました。「〇〇院」「〇〇坊」という場合、文脈によって人を指すこともあれば、居住する坊舎を指すこともあります。坊舎は参詣者の宿坊にも使われていました。十歳以上六十歳未満の女
性・尼が坊に泊まることは祭止されていました。坊の集まりが「坊中」です。
山伏が祈祷すると境界争いに勝利した
山伏たちは地域でも活動していました。草部村(現高森町)にこんな史料が残っています。
永禄八(1565)年、隣接する日向国高千穂(現宮崎県)との間に境界を巡って争いが起きた。草部の2人が萱(かや)を切りに行き、高千穂の者たちと口論となった。高千穂勢が多勢であったために草部の二人は殴られて命からがらで帰宅。阿蘇山の養福坊に「境目の争いに草部が勝利できるように」と祈祷を依頼した。養福坊が清浄な地に祭壇を設けて草部の勝利を祈念すると、高千穂側は恐れをなして引き下がったー 。
この結果、草部郷の村に住む者は養福坊の槽家になったといいます。養福坊は那羅延坊配下の山伏です。
【三十七坊の名前】
衆徒二十坊
学頭坊・成満院・万福院・大宝院・福満坊・得善坊•長善坊・成道坊・娯楽坊・新楽坊・了覚坊・善性坊・浄光院・万楽坊・礼徳坊・大徳坊・成実坊・妙境坊・実門坊・福性坊
行者十七坊
道場坊・鏡観坊・鏡一坊・幸宝坊・那羅延坊・陽泉坊・極楽坊・了忍坊・鏡善坊・妙円坊・円達坊・慈眼坊・了実坊・鏡珍坊・密教坊・円鏡坊・幸密坊
1957(昭和32)年12月に撮影された古坊中の空中写真。冬の撮影のため積雪しており、坊の区画がわかります。上が北で、左が草千里、右に火口があります。中央に阿蘇登山道路が見えます。
旧阿蘇町が1998(平成10)年に作成した古坊中跡地形合成図。古坊中跡現況地形測量図に、阿蘇山古坊中地形図(1930年作成、熊本県教育委員会蔵)を複合した図。上の空中写真とほぼ同じ場所で、右下に阿蘇山上広場があります。
僧侶たちの組織があった
阿蘇氏の規制と保護の下で僧侶たちの組織を運営
三十七坊にはそれぞれご本尊として十一面観音像がまつられていました。今も阿蘇市には民家や寺などに複数の十一面観音像があります。立像のほか、坐像もあります。
三十七坊の衆徒や行者たちは組織をつくり、合議制で運営していました。この組織を「阿蘇一山」と呼びます。衆徒が交代で運営の責任者となる「年行事」役を定め、自立的に運営されていました。
火山活動が活発な阿蘇山上に建つ本堂の造営は度々必要でした。僧侶たちは造営の材料となる木材を確保するため、湯谷の杉を伐採することを禁じ、本堂の用木にすると定めていました。伐採すれば、科料(罰金)があったのです。
本堂造営は、阿蘇山を信仰する人たちから寄せられる寄付でまかなわれていました。
本堂が造立された後の供養の費用を負担していたのは阿蘇氏です。僧侶たちの組織は自立的な運営でしたが、大宮司を兼ねる武家領主、阿蘇氏の規制と保護の下にありました。
阿蘇大宮司の下に寺社奉行がいて、阿蘇一山の法式などについて相談し、科人(とがにん)(罪人)が
あれば隠さずに届け出ることが義務付けられていました。阿蘇氏の政治的動向は、阿蘇一山のあり方に影響を与えました。
阿蘇山上は冬、厳しい寒さとなるため、冬の間、衆徒たちは麓の里坊に下りたと思われます。現在の南阿蘇村の湯谷地区あたりに里坊があったようです。
白川水源があり、湧水が豊富です。酒を売買していた記録が残っており、里坊では湧水を使って酒を醸造していたとみられます。いわゆる般若湯と称して、参詣者に売っていたのかもしれません。
南阿蘇村には阿蘇山の開祖、最栄の墓があるとの伝承があります。
厳しい寒さとなっても、常駐する修行者、久住(行者)は山に残りました。今のように暖房もない時代、寒さに耐えることも修行の一つだったと思われます。
阿蘇山上のかつての本堂の跡には現在、阿蘇神社の奥宮である阿蘇山上神社があります。
鹿渡橋の記録あるも場所は不明のまま
山上に行く途中に鹿渡(しかわたり)橋という名前の橋がありました。しかし、文明10(1478)年に洪水により流されてしまいます。学頭坊長宣が再建するための造作次第を記録しています。
鹿渡橋は万人の通路として比類なき天下無双の橋であり、参詣のためにはこの橋がなければ叶わないと重要性を述べています。橋の造営は古くから坊中の仕事でした。惣大工と山伏12、3人で造成ができたと記されています。
橋を渡る通行人からは「橋賃」としてお金を取りますが、参詣者は免除されていました。交通路としても不可欠な橋だったのでしょう。
しかし、現在、鹿渡橋はありません。どこに架けられていたのかも不明です。現在の南阿蘇村下野には「袋鹿蔵」、「鹿洗」という鹿のつく地名があります。黒川を下れば、現在の南阿蘇村立野に数鹿流ケ滝(すがるがたき)があります。鹿渡橋は恐らく黒川に架かっていたと思われます。
騒乱に巻き込まれ僧侶は四散
大友氏に支配された肥後島津氏から攻略される
戦国時代、九州各地でもそれぞれ勢力を広げようとする動きがありました。
農後の大友氏は肥後に勢力拡張を図り、肥後は大友氏の支配下に置かれます。阿蘇大宮司家は大友氏の下で安定が続きました。
しかし天正6(1578)年、大友宗麟(義鎮)は日向耳川の戦いで北進をはかる薩摩の島津義久に大敗します。島津氏の進撃は続きます。同九年九月に八代・芦北・球磨を支配していた相良義陽(さがらよしひ)は島津氏に降伏。島津義久は阿蘇氏を討っために、義陽に対して、義陽の盟友でもある阿蘇氏家老・甲斐宗運(かいそううん)を討つことを命じます。義陽は同年十二月に響ヶ原(現宇城市豊野町糸石)で宗運と戦って討ち死にしてしまいます。
大友氏に属する宗運は島津氏との和平交渉にあたります。大宮司は阿蘇山衆徒の新楽坊を使者として島津氏に和睦の文書を遣わしました。宗運によって和平が実現しますが、宗運はその後亡くなってしまいます。すると島津氏は阿蘇氏攻略を開始し、阿蘇氏が支配する城が次々と落城しました。
衆徒と行者は宗運が死去するとまもなく、島津氏の元に使節を送ります。行者は仁王経千座の祈祷巻数(かんすう)を御船にいた島津義弘(忠平)に届けています。翌日、衆徒の成満院と福満坊は守護の宿坊を巡って義弘に訴えます。義弘は宿坊について「満山談合」、つまりすべての衆徒たちによる話し合いによって決めるべきだと答えています。
また、島沖氏の年寄が阿蘇山の年行事に宛てた書状が残っています。女性が泊まることができないはずなのに、「阿蘇山が乱れている」と叱責しています。書状では阿蘇の僧侶たちが島律氏の支配下に憤かれている状況がうかがえます。
寺は焼き払われ阿蘇山の僧侶組織は没落
豊臣秀吉は九州平定のために天正15(1587)年12月、大軍を率いて九州に進出し、島津義久を降伏させました。度重なる争乱で阿蘇山上にあった寺院は焼き払われてしまったと伝えられています。
その結果、衆徒や山伏たちも行き場を失い、山を下り、四散していきました。この中で長善坊のみが残ったと伝えられています。古坊中の跡には、わずかに出士した石塔や土塁が残されています。
熊本県教育委員会が昭和55(1980)年にまとめた文化財調査報告書「古坊中」では、この地域で草地改良などが行われた際、石造物が出上し、「厖大な量であった」という関係者の話を伝えています。また、「昭和三十年代まで古坊中地区に坊跡とみられる方形の士塁が存していた事は黒川地区の多くの住民の記憶に残っている」としています。
古坊中に関して、過去に大学などが調査したところ、火山灰の下には古坊中時代の遺構が残存している可能性が示されました。本格的な発掘調査が計画されたことがありますが、中岳の噴火により中止となってしまいました。
現在、広々とした草原が広がっている古坊中で、当時の隆盛を物語るものはほとんどなく、降灰(火山灰)でできた土壌の中に眠っています。
加藤清正が坊を再興
朝鮮出兵で清正を援護 矢に「長善坊」の文字
豊臣秀吉による天下統一の後、肥後には加藤清正がやってきます。清正は、坊中を再興させます。
こんな言い伝えがあります。
加藤清正が朝鮮出兵に参加し、苦戦を強いられた。その時、おびただしい矢が飛んできて加藤軍を援護。清正は不思議に思い矢を拾ってみると、そこには「阿蘇山長善坊」の文字があった。その後、肥後に入国すると早速、長善坊を探し、城に招待した。長善坊は清正に坊中再建を願い出て、許可されたー。
清正は坊舎を復活させて、ばらばらになっていた衆徒・行者に帰ってくるよう命じます。この文書の宛先は「阿蘇大明神長善坊寺社中」。古坊中が没落したとき、唯一残った長善坊が活躍を見せます。
長善坊は僧侶たちを呼び集め、黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十七坊を新しく設けます。清正は、勢力を持つ阿蘇氏と僧徒集団とのかかわりを破壊し、自らの監視下に置こうとしたとみられます。庵の数は52ともそれ以上とも言われています。
清正によって再興された坊中を「麓坊中」と呼びます。これに対して、山上にあったかつての坊中は「古坊中」と言います。
坊中は計画的に再興されます。東西に延びる道(旧道)の南側、火口に近い方に衆徒の坊舎が、北側に行者の坊舎が建てられました。坊舎は神前、客殿、玄関、居間、台所という間取りで造られました。一番規模の大きい坊舎は学頭坊で、現在の阿蘇山西巌殿寺がある場所にありました。坊中という地名は今も残っています。昭和36(1961)年まで阿蘇駅は坊中駅という名称でした。黒川地区には行者にちなんだ「行者通り」もあります。近くには「長善坊の公孫(いちょう)樹」があり、加藤清正が植えたと伝わります。母親の病気回復祈願のため阿蘇を訪れたとき、乗っていた馬をつないだとされ、別名「駒つなぎの公孫樹」とも呼ばれています。樹齢は約四百年、高さは12メートルほどです。復興した阿蘇一山の安永3(1774)年の総人口は668人だったと伝えられています。衆徒・行者が計52人、山伏43人、家来やその妻子などが住んでいました。
山上に本堂も再建され三十余の堂社も造られる
山上には本堂(石間・九間)を中心に30余の堂社が立ち並んでいました。本堂の内陣は本尊十一面観音と脇侍の不動明王、毘沙門天が安置され、外陣には右に最栄読師、左に慈恵大師がまつられました。
山上であるために傷みが生じて、本堂の大規模な再建が文化4(1807)年春から始まり、翌年秋に完成します。再建工事は阿蘇郡内の人びとが行いました。
再建工事は本堂の部材では足りず、新規に資材を麓から険しい山道を運ぶ大工事となりました。阿蘇郡を挙げて人々が協力したほか、お金や材木の寄付などもあり、予算のほぼ半分の経費で完成しました。
加藤家の代わりに熊本藩主となった細川家から、五穀豊穣や雨ごい、台風被害防止を願う祈祷を命じられた記録も残っています。
祈祷は命令や依頼によって行う場合もあれば、自ら行う場合もありました。
絹本著色麓三十六坊中図。坊中は三十七ですが三十六と称しています。この図は西巌殿寺所蔵でしたが、平成13(2001)年の火災で焼失してしまいました。(画像提供・熊本県立美術館)
隆盛を誇った麓坊中
阿蘇山の麓に再興された坊を描いた「麓坊中絵図」には、坊の名前が詳しく書かれています。阿蘇山に近い南側に衆徒の坊、北側に行者の坊や山伏の庵がありました。
図の中央付近で左右に延びる道路は旧道として今も残っています。斜めの道は、上側が仲小路通り、下側が行者通りです。仲小路通りの突き当たりには、階段が描かれています。現在の西巌殿寺の境内にあります。
坊中散策マップ
阿蘇市黒川の坊中地区には、かつてたくさんの坊や庵がありました。当時に思いを馳せながら、かつて坊や庵があった場所を巡ってみませんか。JR阿蘇駅隣にある道の駅阿蘇を出発して、麓坊
中の跡を散策するコースの一つを紹介します。
●衆徒坊跡
■行者坊跡
◆ 山伏庵跡
▲ 行者祈祷所跡
1:学頭坊 2:成満院 3:万福院 4:大宝院 5:福満坊
6:長善坊7:了覚坊 8:浄教院 9:万楽坊 10:道場坊
11:鏡ー坊 12:幸宝坊 13:那羅延坊 14:妙円坊 15:円達坊
16:鏡珍坊 17:頼現坊 18:実相坊 19:福蔵坊 20:万祐坊
21:善了坊 22:円照坊 23:金光坊 24:福泉坊 25:円林坊
26:覚祐坊 27:養福坊 28:本了坊
A.行者通り
修行僧である「行者」にちなんだ「行者通り」。石畳で風情ある道です。
B.仲小路通り
仲小路通りは旧道から西巌殿寺までの約170メートルです。突き当りに西巌殿寺があります。
C.長善坊の公孫樹
加藤清正が植えたとされます。清正の馬をつないだとも伝わります。
D.西巌殿寺
坊中の中心的存在である西巌殿寺。階段を登れば本堂跡があります。
E.山上本堂道の石塔
当時の人びとは歩いて阿蘇山上に登っていました。山上本堂へ通じる道には、印の石塔がありました。
F.豪潮建立の宝恢印塔
玉名の天台宗寿福寺の高僧、豪潮(1749~1835)の宝筐印塔(ほうきょういんとう)。豪潮は書画にす
ぐれ、独特の宝懐印塔を各地に建立しています。
山に入って「峰入り」修行
七月から九月にかけ十数年おきに入山
修験者が霊山に入って修行することを「峰入り」と言います。修験道の霊場、奈良県の吉野大峯(峰)山で始まったとされ、全国に広がりました。肥後2代藩主、加藤忠広の母の病気快癒を祈願するため、寛永七(1630) 年に2人の行者が吉野大峰に峰入りしています。
阿蘇でも吉野大峰を模して、「阿蘇大峰」として数年から10数年おきに、約1ヶ月にわたる大規模な修行が行われていました。阿蘇山は熊本藩の命によって、幕府や藩への祈祷をする特別な山岳寺院のため、峰入りの費用も藩から出されていました。
古坊中時代は春夏秋の3回、峰入りを執り行っていたとされますが、麓に坊中が再建された江戸時代は秋のみとなります。峰入りしたのは主に行者と山伏でした。50人ほどが大宿、二宿、三宿と名付けられた3グループだいおつけに分かれます。大宿は大越家、二宿は中越家、三宿は護摩先達とも称しました。大宿が全体の指揮を執り、二宿、三宿は補佐をします。百人を超える大所帯だったときもありました。
初めて峰入りする山伏は新客、3度以上の山伏は先達と呼ばれました。新客が全体の3分の1ほど、多い時には半分を占めることもありました。
ルートや日程は決まっています。峰入りに先立ち7月26日は笈(おい)かざりで、神変菩薩・護摩・大日如来の3つの笈仏を飾ります。笈仏とは、背負って同行する仏様です。現在も残されている笈仏は、縦76センチ、横53センチほどの大きさです。丸い銅版に打ち出された仏様が安置されています。京都で作られたものです。峰入りに同行するとかなり傷んでしまうようで、京都で修繕されていたようです。
28日に阿蘇山上と堂社に参詣してから山に入ります。山上を出発し、麓坊中、現在の大津町、菊池市泗水町、山鹿市を経由して福岡県八女市黒木町、同市星野、大分県日田市をめぐり、9月3日に阿蘇に帰ってくるルートです。
目的は天下泰平・国家安全・五穀豊饒さらに武運長久・子孫繁栄を祈念するものです。
山々を巡りながら、各地で護摩祈祷や参詣をします。祈祷するお堂や庄屋の家などに泊まります。
峰入りの一行を各地は酒迎えで歓待
峰入りの一行に対して、コースの道筋の村々ではご馳走で歓待します。これを酒迎えと呼び、ご馳走の内容は吸い物や肴、お神酒などでした。一行は村のお堂で護摩祈祷など勤行して、「奉修練阿蘇大峰天下太平五穀成就祈所」と書いた札を納めます。
菊池の隈府町(現菊池市)の「嶋屋」の屋号を持つ商人による「嶋屋日記」には、阿蘇峰入りの一行を見物に出かけたことが書かれています。阿蘇峰入りは僧侶たちだけでなく、ルートになった地域にとっても一大イベントだったようです。
峰入りの後、熊本藩主に「武運長久・天下泰平・五穀成就祈願、城内安全祈所」のお札が献上されます。お世話になった宿や酒迎えを受けた村々には、お礼の品が送られました。
峰入りの一行は必ず山鹿市鹿北町の「鏡観坊」に立ち寄りました。鏡観坊という行者が峰入りの途中で息絶えてしまい、この地に眠っているとされます。鏡観坊の墓で供養をしたそうです。
山から山へ・・・厳しい峰入り
阿蘇山峰入りは、「天上掛道方」「士路(泥)掛道方」の2つのコースがあります。ここでは「天上掛道方」コースを紹介します。53里半(約210キロメートル)の道のりです。
峰入りは熊本藩への許可が必要で、前年冬に寺社奉行へ届け出ます。春ごろ藩から許可が下り、山上に立てる札や護摩札木が用意されます。また、峰入り中の食料や宿などの準備をします。道案内や荷物の運搬なども依頼します。
阿蘇山の峰入りは藩を越えるため、久留米藩や日田代官所にも往来手形を申請していました。
出発は7月28日で、山上で本堂はじめ各堂に参詣して、麓坊中の祈祷所に泊まります。
7月29日は大津の平川淀姫宮、30日は梱水の住吉宮、8月1日は山鹿大宮、2日は岩野宮に宿泊。3日は鏡観坊に立ち寄ってお経を上げました。ここから筑後(福岡県)に入ります。この辺りから天上掛道方と上路(泥)掛道方のコースに分かれます。
8月は筑後と豊後(大分県)の山々一帯を渡り歩き、東回りで阿蘇に戻ります。9月2日には「箱石の行場」で秘密の作法があったとされます。箱石は阿蘇市と高森町を結ぶ国道265号沿いにあり、重箱を重ねたような奇石です。9月3日は、松明(たいまつ)を灯して阿蘇山上に登り、宝池を巡って山上本堂内陣に笈仏を立てます。
約1ヶ月の長旅となるため、途中、阿蘇から米やみそ、しょうゆなどの食料が届けられていたようです。
阿蘇の守り神「乙護法」
役行者が阿蘇山に登山 天童が回峰修行を伝える
天童は子どもの姿に変身して現れた神様であるとされます。天童の姿をした「乙護法像」が衆徒や行者、山伏の子孫である阿蘇市の複数の民家に保存されています。乙護法は「オトゴサン」と呼ばれ、阿蘇の守り神として大切にされています。子孫から預けられた像「乙護法」もあり、西巌殿寺には複数の像があります。
熊本県教育委員会がまとめた文化財調査報告書「古坊中」では、乙護法像は30~60センチほどの大きさで、28体が確認されたとしています。
特徴は、髪は縮れて肩までの長さ、肩にショールのような布をかけ、おなかの前で両手を集め、右手に金剛杖、左手に独鈷杵(とっこしょ)を持ちます。
「塩買い乙護」と呼ばれる像があり、旧暦の9月28日を祭日としてまつっています。ある祭日に塩がなくて困っていると、堂の下に塩俵が転がっていたと伝わります。
天童に関する言い伝えがあります。
''飛鳥時代、奈良の葛城山に役小角という呪術家がいた。役小角は理想の修行者とみなされて役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになる。
白鳳3(674)年、役行者が阿蘇山奥の峰に登山した時、山が赤色に変わって光がさし、窟から阿蘇山を守護する天童を名乗る声がして、峰を回る修行の基礎を伝えたー。''
衆徒や行者が描いた起請文にも「天童」の文字が登場します。阿蘇の峰入りとも関係が深く、峰入りは「大聖乙天童阿蘇大峰修行」とおいと言われます。役行者(神変菩薩)の笈を担ぎ、スタートとゴールでは役行者堂で勤行しました。
天童は垂迩神で現れ本地の仏は不動明王
加藤清正が坊中を復興させた後、本堂なども山上で再興します。その中に「乙護法社」がありました。ここでは乙護法講が開かれていました。山上にまつられていた乙護法は室町時代作で像高117センチメートルの立派な像です。
乙護法の由来があります。佐賀県と福岡県にまたがる背振山の権現である乙天は、仏法を守る勇敢な神様です。この童子は乙丸と名乗り、「乙護法」と呼ばれるようになったとのことです。
仏(本地)が神(垂速神)の姿をとって現れるという本地垂迩説で、「大聖天童」は垂迩、本地は「不動明王」とされます。峰入りで大聖乙天童(乙護法)を掲げたのは、不動明王の垂迩とみなして信仰されていたからだと思われます。
乙護法に対する信仰は、阿蘇地域のほか、荒尾市や玉名市、熊本市、上益城郡などでも広がっていた記録が残っています。
久木野村(現南阿蘇村)では、ある家で立て続けに病気で亡くなる不幸が続きました。阿蘇山上から落ち延びていた一蔵坊という山伏の怨霊が原因でした。一蔵坊は年貢米が納められない村人の代わりに納めましたが、返してもらえなかったことを恨んで、乙護法に呪力を加えて地中に埋めます。この怨霊が不幸を引き起こしただけでなく、一蔵坊自身も死後、苦しんでいました。原因を突き止め、怨霊を取り除いたのは妙円坊の下山伏慶蔵坊です。そのお礼のため、久木野地区の代表者は昭和50年代頃まで毎年、妙円坊の子孫の家に来ていたそうです。経緯を記した文書が残っています。
彼岸にはオンダケサンマイリ
彼岸には大勢の参拝客商人たちの店も並ぶ
春と秋の彼岸には、阿蘇山に参拝する人が大勢いました。「オンダケサンマイリ」と呼ばれ、現在も熊本県内に代表者が交代で参拝する地区があります。結婚前に参拝して、夫婦の契りを交わすという風習もありました。
彼岸になると、山伏たちが交代で山上に詰めて、香花を供えて勤行をします。山伏たちは参拝客の道案内などもしていたようです。
山上には本堂のほか、堂社が30余りありました。参拝者はどの堂社に参るか、選ぶのも楽しみのひとつだったようです。
参拝客を相手に、商人たちが店を出していました。宝永4(1707)年、山上本堂前の左右の敷地について、衆徒の成満院と万福院が「もともとは自分たちの坊舎だった」として支配したいと願い出ましたが、叶いませんでした。彼岸参りに多くの人が来てにぎわっていたことを示すものでしょう。
彼岸の翌日、不思議な現象が起きたと伝えられます。
彼岸翌日には必ず、御池(噴火口)から水が湧いてきて、山中にあふれ、登山した人たちの不浄を洗い流すー。
事実かどうかはともかく、そう信じられていたことは興味深いことです。
参拝のため渡る「左京が橋」行いが悪い人は渡れず
山上近くに橋がかかっていました。この橋を渡らなければ参拝には行けません。
こんな伝説があります。
左京某という若い武士が、この橋を渡ろうとしたところ、小さな蛇がいたので、「行く手を遮る」とばかりに斬りかかった。
するとたちまち風雲が立ち昇り、小蛇は飛龍となって雲隠れした。武士は天地の異変におののき亡くなってしまったー。
以後、この橋は「左京が橋」と呼ばれるようになりました。次のような言い伝えもあります。
肥後熊本のある米屋では、八合のお米を「一升」と偽って売っていた。
その米屋の娘、お清が友達と念願かなって阿蘇参りに出かけたときのこと。
左京が橋を渡ろうとしたお清は大蛇に変身してしまい、渡ることができなかったー 。
両親が強欲だったことから、「親の因果が子に報い」という因果応報を説いています。
左京が橋は「写経が橋」だったという説もあります。阿蘇山開祖の最栄が一字一石の写経をして埋めた橋で、邪悪な心の持ち主は法華経の功名によって苦しみ、渡ることができないといいます。
いずれも行いが悪い人は渡れないため、無事に渡れたら結婚相手になれるとして参拝されていたようです。
【山上にあった堂社の名前(一部)】
本堂、中宮権現社、山王権現二十一社、乙護法社、役行者堂、拝所鳥居、不動小社、毘沙門小社、甲佐明神小社、一ノ烏井、住吉明神小社、上品橋、春日明神小社、遥拝鳥井、伊勢小社、十
社明神小社、天岩戸不動小社、八幡小社、加茂小社、田鶴原小社、文珠堂、聖徳太子堂、郡浦明神小社、中品橋、荒神小社、伽藍小社、祓川水神小社、乙姫小社、壱ノ護法、山上打越水神社
明治維新で三十七坊は廃寺に
廃藩置県で寺領地返還扶持米もらえず存続できず
多くの人でにぎわっていた麓坊中ですが、明治になると再び試練に直面します。
江戸幕府を倒した明治新政府は玉政復古をスローガンに神仏分離・国家神道の政策を推進します。
神仏習合の状態にあった神社仏閣では、徹底して仏教色が排除されます。神社に奉仕していはつている僧侶たちに、剃髪をやめさせ、僧籍から離れることを求めます。
阿蘇大宮司惟治は神仏分離策を主導権回復の機会ととらえ、僧侶たちを僧籍から離れさせ、神職にしようとします。しかし、阿蘇社と阿蘇山を対等に扱っていた細川藩は拒否し、これまで通り藩の寺社奉行が指図するとしました。
僧侶たちに今後の意向を聞いたところ、住職を続けたいと希望したのが衆徒十坊、行者二坊。神職を選択したのは行者四坊でした。神職を選択した行者は寺号が廃止となり、仏体•仏具は阿蘇一山へ移されました。
明治3(1870) 年、藩から寺社に対して明治13年に誕生した阿蘇山西巌殿寺。法雲寺という寺号でしたが、地元の人の要望で「阿蘇山西巌殿寺」に改称が許可されました。支給されていた米(扶持米)が一代限りと決められます。翌年、廃藩置県で細川藩自体がなくなったため扶持米もなくなり、寺として
存続していくことができなくなりました。多くの寺は廃寺に追い込まれます。
明治四(一八七一)年十一月、阿蘇山に奉納された宝物が神器と仏器に分けられて、神器とされた刀剣十振が阿蘇社に引き渡されました。
元衆徒成満院弘英(改め谷帰)は「廃寺に当たり、仏体法器のみ拝領し、寺から出て行かざるを得ない」と、無念の思いを書き記しています。
山上にあった堂社のうち、本堂と山王堂、乙護法堂は村人たちが担いで麓に下ろし、黒川村の衆徒御祈祷所跡に移しました。日本の伝統的な様式で建てられていたため、解体して木材を運び、再び組み立てることが可能だったのでしょう。大変な重労働だったと思われます。
山上には堂社が30数社ありましたが、やっと運ぶことができたのは3社だけでした。残った20数社は長い間、風雨にさらされ、消滅したと思われます。
芦北から寺を移転新しい「西巌殿寺」に
麓に下ろされた本堂には仏像などに加えて、還俗した各坊からの仏物も多数納められていました。しかし、僧侶たちがいなくなり、管理する者がいません。坊中周辺には寺がなくなり、葬式などの法要が困難になりました。
元衆徒たちが中心となって打開策を検討し、葦北郡田浦(現葦北郡芦北町)の法雲寺を迎えることとなります。法雲寺は阿蘇山と同じく比叡山延暦寺末西覚院で、阿蘇一山と同じ法流でした。法雲寺は神仏分離によって檀家が減り、経営が困難な状況でした。
明治9(1876)年、阿蘇への移転願を熊本県令に提出し、聞き届けられました。法雲寺の住職が黒川村に来て、元学頭坊舎を庫裏にして、引き続き住職を務めることとなりました。
黒川村の人々が法雲寺の寺号を由緒ある阿蘇一山の総寺号である西巌殿寺に改称したいと要望し、明治13(1880)年に認められ、新しく阿蘇山西巌殿寺が誕生します。
明治23(1890) 年、阿蘇山上の旧本堂の西寄りに「西巌殿寺奥の院」が建てられました。平成28(2016)年の熊本地震や噴火で被災しましたが、その後再建されました。「良縁に恵まれる」として「恋人の堕地」に認定されています。
阿蘇の信仰と歴史」年表
| 阿蘇山噴火活動に対して祭祀を行う(「隋書」倭国伝) | |
| 神武天皇皇子、神八井耳命は火君・大分君・阿蘇君らの祖(「古事記」神武天皇) | |
| 阿蘇国に阿蘇都彦・阿蘇都媛の二神あり(「日本書紀」景行紀) | |
| 神八井耳命の孫、速瓶玉命を阿蘇国造とする(「先代旧事本紀」国造本紀) | |
| 713(和銅6) | 阿蘇岳の頂きに霊沼があり、中岳は阿蘇神宮という(「筑紫風土記」逸文) |
| 726(神亀3) | 天竺毘舎利国の最栄、阿蘇社に参詣し、阿蘇明神の姿を感得し、本地仏十一面観音を仏閣に安置(「阿麻山旧記抜書」) |
| 794(延暦13) | 僧等定らが八幡・宗像・阿蘇三神社に遣わされて読経を行い、度者(僧侶)が七人が定められた(「類衆国史」) |
| 796(延暦15) | 阿蘇山上の沼、神霊池が涸減、卜痙は旱疫、毎寺三日斎戒•読経・悔過、賑給(「日本後紀」) |
| 823(弘仁14) | 従四位下健磐龍命神は早の時祈れば即座に降雨、護国救民の神、封戸二千(二十?)戸付される(「日本紀略」) |
| 825(天長2) | 神霊池涸渇、卜斌は旱疫、毎寺斎戒、賑給、調・庸免除(「類衆国史」) |
| 838(承和5) | 遣唐使の航海安全を祈願するために香椎宮・八幡大菩薩宮・宗像神社・阿蘇神社に度者九人(阿蘇神社は二人)が充てられた(「続日本後紀」) |
| 840(承和7) | 神霊池涸渇、伊勢大神宮へ祈祷(「続日本後紀」) |
| 841(承和8) | 神霊池涸減、卜筑は旱疫、毎寺斎戒・薫修、毎社奉幣、賑給、雑術軽減(「続日本後紀」) |
| 842(承和9) | 祟りによって、宗像神・竃門神・健磐龍命神など諸社に奉幣(「続日本後紀」) |
| 864(貞観6) | 健磐龍命神霊池沸騰、比売神嶺三石神の内、二石神頷崩、卜筵は水疫(「三代実録」) |
| 865(貞観7) | 神霊池沸騰、卜座は兵疫、毎寺薫修、毎社奉幣、賑給、租税免除(「三代実録」) |
| 866(貞観8) | 阿蘇大神怒気、卜策は兵疫、国司潔斎、奉幣並金剛般若経千巻・般若心経万巻転読、大宰府城山四王院で金剛般若経三千巻・般若心経三万巻転読(「三代実録」) |
| 867(貞観9) | 健磐龍命姫神の山嶺、五月十一日夜奇光、十二日朝振動で崩(「三代実録」) |
| 927(延長5) | 肥後国四座、阿蘇郡三座(健磐龍命神社・阿蘇比眸神社•国造神社)、玉名郡一座(疋野神社) (「延喜式」神名帳) |
| 1049(永承4) | 阿蘇社焼亡(「百錬抄」) 「帝王編年記」には三月阿蘇社神殿焼亡と記す |
| 1116(永久4) | 阿蘇社焼亡(「百錬抄」) |
| 1144(天養1) | 比散山慈恵大師の徒、最栄が阿蘇大宮司友孝の許可を得、阿蘇山に居住(「阿蘇宮由来略」) |
| 1168(仁安3) | 栄西、入宋に際し、豊前の宇佐・肥後の阿蘇嶽で修行し、筑前の宮崎宮・香椎宮などに航海の安全を祈願(「千光祖師年譜」) |
| 1195(建久6) | 北条時政、天宮祝と阿蘇峰に居住する僧等の争いを裁定(「阿蘇家文書」) |
| 1289(正応2) | 北条貞時(時宗子)、阿蘇上宮へ太刀を奉納(「阿蘇家文書」) |
| 幕府、肥後一宮阿蘇社に剣・神馬を奉納(「阿蘇神社文書」) | |
| 1290(正応3) | 幕府、阿蘇社に異国降伏の祈祷を命ずる(「阿蘇神社文書」) |
| 1340(暦応3) | 宝池鴫動、黒白の煙が蒼天を覆って大噴火となる、上下両所大行事の社が破損(「西巖殿寺文書」) |
| 1352(正平7) | 阿蘇山衆徒等、起請文(十歳以上六十歳未満の女性尼を住坊へ止宿禁止) (「阿蘇家文書」) |
| 1356(正平11) | 衆徒内談(衆徒衆議) (「西巖殿寺文害」) |
| 1374(文中3) | 阿蘇嶽妙円坊職譲状(「西巖殿寺文書」) |
| 芝原大夫将監大神政藤、阿蘇山乙護法社に高千穂荘上村内冬野及び栗原を寄進(「肥後国誌」) | |
| 1375(永和2) | 霊水流出による洪水のため本堂流出(「西巖殿寺文書」) |
| 1375(天授1) | 懐良親王、阿藤山に仏舎利を奉納(「西巖殿寺文書」) |
| 1382(弘和2) | 征西大将軍宮良成親王、阿蘇山衆徒に祈祷を嘱す(「西巖殿寺文書」) |
| 1387(至徳4) | 阿蘇山衆徒等注進、肥後国鎮守正一位阿蘇大明神上宮奇瑞事(「阿蘇家文書」) |
| 1388(嘉慶2) | 阿蘇山衆徒等注進、肥後国正一位阿蘇大明神御宝池怪異事(「阿蘇家文書」) |
| 1433(嘉吉3) | 阿蘇山本堂供養(「西巖殿寺文書」) |
| 1484(文明16) | 阿蘇惟忠、阿蘇山新楽坊職を安堵(「阿蘇家文書」) |
| 1485(文明17) | 幕の原合戦、阿蘇惟憲(惟忠子)・相良為続連合軍が阿蘇惟歳・惟家父子・菊池重朝連合軍を益城郡馬門原(現上益城郡山都町)で破る。惟歳・惟家は没落。 |
| 1512(永正9) | 阿蘇惟豊、衆徒方陽泉・極楽・那羅延の三坊職を行者方に補し、衆徒方二十坊・行者方十七坊となる(「阿蘇家文書」・「阿蘇宮由来略」) |






































