阿蘇のお米
2026年、阿蘇のお米についての映像が公開されています。
50 件見つかりました
2026年、阿蘇のお米についての映像が公開されています。
阿蘇山の神と仏
古坊中は14世紀後半から16世紀にかけて栄えました。16世紀後期、敵対関係にあった大友氏と島津氏が九州の支配権をめぐって争うと、ここでの修行僧や山伏(山伏)の生活は妨げられました。16世紀後半には、彼らのほとんどが山を去りました。
西巌殿寺は、726年にインドから来た最栄という僧によって創建されたとされます。時とともに、この寺は火山信仰と修験道の主要な拠点となりました。14〜15世紀になると、数百人の山伏たちが寺の西側に広がる比較的平坦な土地を占有し、この地域で大きな...
西巌殿寺のすぐ左手には、「写経ヶ橋」と呼ばれる溶岩の道があります。この名は、「写経」つまり仏教の経典の一節を石に書き写し、それを祈りの形として埋めるという風習にちなんだものです。道路が整備される前は、写経ヶ橋が火口へ登るための主要な道でし...
一見簡素に見えますが、西巌殿寺は千年以上前から阿蘇地域の暮らしに重要な役割を果たしてきました。現在も、阿蘇市内にある西巌殿寺の本院の住職は、「慈悲の女神」として知られる十一面観音のために太鼓を打ち、お経を上げるため毎朝山を登ります。
約1300年の歴史を持つ西巌殿寺は、九州で最も歴史のある寺のひとつです。この寺は、インドからやってきた最栄という僧侶によって726年に創建されたといわれています。現在の簡素な建物は2022年8月に建てられました。それ以前は、1890年に建て...
阿蘇神社で行われる儀式や祭礼には二つの重要な役割があります。一つ目は阿蘇山の噴火を防ぐこと、二つ目は豊穣を確保することです。
阿蘇山には十二柱の神々が祀られています。その十二柱のうち、特に重要な三柱は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妻の阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)、そして彼らの孫の彦御子神(ひこみこのかみ)です。
神話 - 民話 - 的石伝説 - 千匹塚 阿蘇神社 下宮と上宮 同一の目的を持つ二社
紀元前282年に創建されたと考えられる阿蘇神社は、別々の場所にある二社から成ります。1つ目は下宮(下の神社)でカルデラ底に広がる阿蘇市にあります。もう1つは阿蘇山上神社(文字通り、「阿蘇山の上の神社」という意味)という正式名称を持つ上宮(...
阿蘇の価値を守り、次世代へ継承していくため、熊本県と阿蘇郡市7市町村では阿蘇の世界文化遺産登録を進めています。 阿蘇の草原は世界最大級のカルデラという特異な地形において、長年にわたり「野焼き」や「茅採取」等の営みが進められ、火山と人間との共...
阿蘇の野焼きは春の彼岸を中心に一斉に行なわれます。スケールの大きさと迫力に、毎年約14,000人もの観光客が訪れます。 野焼きの直後は黒々とした山肌が露わになります。しかし、暖かさが増すにつれて、やがて緑が一面に広がりはじめ、黄色のキスミレ...
草部吉見神(くさかべよしみがみ)[彦八井命・国龍神]と健磐龍命(たけいわたつのみこと)の父、神八井耳命(かむやいみみのみこと)は兄弟で吉見神は兄にあたります。 吉見神は神武天皇の命令で治保郷(ちほごう)をおさめることになりました。 (阿蘇郡...
阿蘇という名前はアイヌ語の「火を吐く山」という意味の言葉からともいい、日本書紀の中には、景行天皇18年6月16日条に「阿蘇の国にこられた。その国の野原はひろく、遠くまで人が住んでいる気配はまったく無い。そこで天皇はおっしゃられた。(この国に...
健磐龍命(たけいわたつのみこと)を主神として、阿蘇神社には十二柱(じゅうにはしら)の神様が祭られています。その中でいくつもの名前で呼ばれている神様もあり、混同(こんどう)されやすいので整理してみました。
大観峰の遺跡から出土した石器は前期旧石器時代の物が最も古く、3万年以上5万年前の物といわれ、その年代に、人間が住んでいた痕跡として、伺い知ることが出来ます。 阿蘇山という広い峰の山が大陥没を起こしたのは、約3万年程前の事といわれていますので...
阿蘇地方に人間が住んでいたという遺跡は多くあり、大観峰の永倉遺跡からは「細石刃」が発見され石器時代のものと確認され、さらに西小園の「下り山遺跡」や「波寄ヶ原遺跡」からは石槍や縄文土器がそれぞれに採集されており、縄文時代の住居跡であることが確...
活火山として、その規模を世界に誇(ほこ)る阿蘇のカルデラは、中央に阿蘇の五岳と言われる「根子岳・1433m」や「高岳・1592.3m(ヒゴクニ)」と、大きな火口に火を噴く「中岳・1506m」さらに「烏帽子岳・1336.7m(どんべえ岳)」と...
西巌殿寺は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院で、山号は阿蘇山です。古くから阿蘇山修験道の拠点として、また、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつです。 過去に、本堂は2001年に火災で焼失し、礎石のみ残りますが、山門をくぐり石段...
豊後街道は、熊本市新町1丁目御門前「札の辻」を起点とし、大分市鶴崎に至る全長31里(124km)に及ぶ参勤交代路です。 坂梨町はこの「札の辻」から東へ13里(52km)に位置します。 天正16年(1588)熊本城に入り、のちに肥後一国の藩主...
放牧地で草を食んでいる牛がダニに襲われる場合があります。乳器や外陰部など皮膚の薄い部分に無数のダニが真っ黒く付着すれば、牛は痩せ細り、ダニ熱(=ピロプラズマ病)という貧血症状を起こすこともあります。
阿蘇郡内での牛馬市は明治33年、蘇東畜産組合が波野村笹倉で開いたのが最初です。その翌年には郡内各地に開設され、数次の変還を経て、38年に家畜市場へと発展を遂げました。 しかし、当時の牛馬市では不正な取り引きが横行し、農家は度々にわたり多大な...
あか牛の品種改良が行なわれるなか、それを生産する農家の組織化、販路の確立も進められました。 その中心にあったのが産牛馬組合です。産牛馬組合は公正なセリ市場を開設して、優秀な飼育牛の取引を行いました。
明治後期からの外国種牛の導入によって、飼育牛の早熟性が大きく伸び、体積が増大しました。しかし、約20年が経過する頃には、この外国種交雑も整理段階を迎えました。それは「外国牛即改良牛」「雑種即改良牛」という単純な理想だけで出発した制作の甘さで...
阿蘇郡一の宮町(現阿蘇市一の宮町)の県立阿蘇清峰高等学校(現阿蘇中央高等学校清峰校舎)には、肥後のあか牛改良の祖となった「ルデー号」の骨格標本が保存されています。 ルデー号は明治後期から大正にかけて、阿蘇郡産牛馬組合の種牛として数々の名牛を...
阿蘇の草原に戦後、大きな変化をもたらしたのが国による草地の大規模開発事業でした。同事業は牛乳や牛肉の増産を図るという目的で、昭和41年に事業化されました。 この結果、阿蘇では従来の入会権の慣行が大きく崩れ、草地利用の形態が多様化しました。
もともと入会権とは、一定地域の住民が一定地域の山林原野などで生活のために採草や薪炭用雑木を共同収益する慣習上の権利です。 これは、共有物の所有権や使用権、あるいは公有財産の使用権として、民法や自治法に認められています。 阿蘇郡では蘇陽町や小...
十世紀初めにまとめられた法律『延喜式』の兵部の項に、「肥後国二重馬牧・波良馬牧」という地名が記載されています。
端辺とは、二重の峠・鞍岳・ツームシ山・尾の岳を結ぶ線以東で、九州横断道路までの原野を指します。俗に端辺八里といいます。 端辺は阿蘇カルデラの円周約100㎞の北西外輪部で、面積は約10,000㌶。カルデラの壁が障害となって、昔から道路整備が遅...
野焼き時に防火線付近を管理する人々は、火消し道具を持って任にあたります。昔はヒノキの枝が使用されてきましたが、近年になると「火打ち棒」や「ジェットシューター」「動力噴霧器」などが登場しました。 火打ち棒はマダケの先端を人の手のように裂き開き...
広大な草原を一気に焼き払う野焼きは、極めて危険な作業です。燃え盛る炎は高温なうえに高速です。 平均的な草原(枯れ草の残存量が10㌃当たり5百㎏程度のススキ型草地)でも、野焼き時の温度は摂氏600~800度に達し、延焼速度毎分0.2~8mにな...
空気の乾燥した日が続き異常乾燥注意報が発表されるような気象条件下で発生しやすく、強風が伴えば延焼拡大の時間は非常に早くなります。 一般に交通、水利ともに不便な場所で発生しやすく、そのため発見、通報、覚知が遅れ、広範囲に延焼拡大します。 消火...
最も古い日本人の土着信仰で信仰形態も、県内各地の生業によって影響を受けることがありました。山仕事をする人達の山の神祭りは通常、旧暦(現在は新暦のところが多い)正月、5月、9月の16日とされ、この日の山仕事はタブーとされています。それはこの日...
県下の事業所数は648で、従業員数は7,519人です。製造品出荷額は903億円余りとなっています。 大規模事業所(従業員数300人以上)は一事業所しかありませんが小規模事業所(従業員数29人以下)が94%を占めています。産業中分類でみた構成...
蚕糸の起源は中国で紀元前3700年頃とされ、日本に伝わったのは諸説がありますが、仲哀天皇のころといわれています。 「肥後国誌」によると熊本県には推古帝の609年に百済の僧道欣が芦北郡津奈木に漂流帰化して養蚕を始めたと伝えられています。
中世以降、神社や寺院への参拝者を対象に土産物店、飲食店、宿屋、娯楽施設などが社寺の門前の街道沿いに発達した町を指します。 寺院の門前の場合を門前町、神社の場合を鳥居前町、寺の境内の集落を寺内町、山岳信仰と結びついた宿坊集落を御師町などと区別...
阿蘇市一の宮町手野字迎平、橋詰、的場に分布する古墳群です。地元では「六ッ塚」と呼ばれています。かつては八基以上の古墳が分布していたそうです。 発掘調査は行われませんでしたが、1~3号墳は直径約25㍍の円墳(迎平)、4号墳は水田中に封土の残丘...
庶民が伝えてきた各種の信仰。仏教、キリスト教などの成立宗教は、それぞれ特定の教義、経典をもち、国境、民族を越え、普遍的性格が強いのに対し、民間信仰には難しい教義などはなく、「講」組織のように信仰集団が小地域に限定され、地域独特の信仰形態を形...
明治19年(1886)12月12日~昭和37年(1962)1月18日。官吏。阿蘇郡河陽村(現南阿蘇村)生まれで代々神職の家柄でした。済々黌から国学院大卒業後官界に入り、昭和12年東京市保険局長を最後に退官。戦後神社が国家の保護を失った時、関...
安政4年(1857)1月18日~昭和11年(1936)3月2日。大阪協会牧師。阿蘇郡宮地町今村(現阿蘇市一の宮町)阿蘇神社社家宮川経連の三男として生まれる。明治5年(1872)熊本洋学校に入学、9年1月の熊本バンドにも加盟、のち同志社神学校...
鎌倉時代以来阿蘇郡南小国町の真言宗満願寺に伝来した16通の中世文書(内1通は江戸期のもの)で県指定重要文化財になっています。 『大日本古文書 家分け弟十三 阿蘇文書之三』に所収、『熊本県資料 中世篇第一』に江戸時代を除き所収。『熊本県文化財...
水稲の育苗法。長野県の篤農家荻原豊次が考案し、同県農業試験場と共同で昭和22年(1947)に完成させた保護苗代のことを指します。 上げ床にわずかに催芽した種もみを蒔き、その上に畑土、焼き籾殻を散布し油紙で覆い、その後13日前後で紙を取り除き...
明治元年(1868)12月19日-昭和12年(1937)3月20日。阿蘇国立公園期成会創立者。 阿蘇郡内牧村(現阿蘇市内牧)に松村猪之八の長男として生まれる。村の私塾で学び、15歳で小学校教師となり、田迎、川尻小から阿蘇坂梨小校長となりまし...
馬頭観音を本尊とする畜産の神様です。昔から畜産の盛んな菊池、鹿本、益城、阿蘇地方では牧の神の信仰が厚い。標高1119㍍の鞍岳の頂上直下の観音堂(菊池郡旭志村)、山麓の菊池郡大津町御願所にある円満寺の奥の院は、俗に「鞍岳さん」の名で親しまれ、...
下益城郡砥用町三和。健磐龍命以下阿蘇十二神が祭神。天慶年間(938~947)阿蘇惟泰が阿蘇神社の分霊を当初長野村猿山(現砥用町)に祀り、砥用郷の総鎮守としました。天正年間(1573~1592)兵火のため、社殿、旧記などを消失しました。慶長年...
阿蘇家伝来の名刀で来国俊の作で旧国宝となっています。 延元元年=建武3年(1336)阿蘇惟直が菊池武敏とともに足利尊氏の西下を阻止しようと、筑前多々良浜(現福岡市)で迎え撃ちましたが敗北しました。 この時用いた太刀が「蛍丸」で、適と激しく渡...
馬子が人や物を馬で運びながら歌った道中歌で、馬追い唄、馬方節、馬引き唄などともいいます。全国的には鈴鹿峠、碓氷峠の馬子唄などが有名です。 馬子を専業とする交通労働者が現れたのは室町時代と言われ、そのころから労働歌として歌われたものと考えられ...
阿蘇市一の宮町荻の草の氏神、荻の草の氏神、荻の草神社の祭事です。 県指定重要無形文化財に指定されており。春祭り(3月15日・16日)と夏祭り(7月29日)に奉納されます。 豊作予祝の念仏踊りの一種で、神社での神事と古代神楽のあと、道楽の行列...
伊豆国(現静岡県)の在庁官人で、源頼朝の舅(しゅうと)北条時政が鎌倉幕府の草創にあずかり、以来執権家として繁栄しました。頼朝没後は幕府権力を左右し、とりわけ家督の得宗家は鎌倉中期以降、全国的に港湾を押さえ、西国を中心に多くの守護職、地頭職を...