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阿蘇くじゅう国立公園指定90周年シンポジウム

更新日: 2025-04-03 (木) 18:09:36 (293d)

阿蘇くじゅう国立公園と火山信仰の文化

2024年12月4日(水)阿蘇火山博物館3階ホールで「阿蘇くじゅう国立公園指定90周年シンポジウム 阿蘇くじゅう国立公園と火山信仰の文化」が開催されました。当日の議事録を掲載します。

〇司会者(福田京花氏) 
今回のシンポジウムのテーマは国立公園と火山信仰の文化です。
国立公園の魅力は、自然や生き物たちに限らず、人々が作り出す文化も含まれています。阿蘇では草原文化が有名ですが、本日は阿蘇山で展開された火山信仰の文化について、有識者の方々にご説明をいただきます。
それでは、パネリストの皆様をご紹介いたします。
お名前をご紹介いたしましたら、ご登壇をお願いいたします。
まずお1人目は肥後考古学会会長島津義昭様です。
島津様は阿蘇市内牧でお生まれになり、熊本県職員として勤務。退職後も肥後考古学会九州考古学会に所属、九州文化財研究所特別相談員としてもお務めでいらっしゃいます。
続いて、元熊本県文化財保護審議会委員佐藤征子様です。
佐藤様は、元熊本県文化財保護審議委員として市町村史の編纂委員を数多くお務めいらっしゃいます。阿蘇だけでも、阿蘇町、一の宮町、波野村、蘇陽町、白水村の市町村史の編纂、また論文では三十七坊の変遷などがございます。
続いて阿蘇神社権禰宜池浦秀隆様です。
池浦様は阿蘇神社文化財担当であり、学芸員としても大変ご活躍です。「阿蘇山火口をめぐる近世期の宗教構造」(吉村豊雄・春田直紀編『阿蘇カルデラの地域社会と宗教』)など多くの書物を執筆されています。
続いて、環境省九州地方環境事務所阿蘇くじゅう国立公園管理事務所長、笠原綾様です。
笠原様は2009年環境省入省、これまでに国立公園管理、生物多様性条約、ワシントン条約、野生生物観光等を担当。日本政府観光局への出向も経験されアドベンチャーーリズムなども担当されています。
最後の方は、熊本県企画振興部政策審議監沖圭一郎様です。
2021年から文化企画世界遺産推進課長、2022年から2年間は阿蘇地域振興局長を務め、現在は企画振興部政策審議監としてご活躍されています。
コーディネーターは阿蘇市教育委員会学芸員宮本利邦様です。
宮本様は2019年NHKブラタモリに案内人として出演されるなど、深い知識を持つ学芸員としてご活躍でいらっしゃいます。
それでは、ここからの進行は宮本様、よろしくお願いいたします。
阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい。では、皆さんこんにちは。
本日のコーディネーターを務めさせていただきます、阿蘇市教育委員会学芸員の宮本と申します。なにぶんこういった場面では、どちらかというと私、今まで事例報告とかの発表側にいる機会が多くてですね、今日ご登壇していただく有識者の皆様に対しまして、いきなりコーディネーター役ということで、場をまとめるという非常に大役を仰せつかって、ちょっと不慣れなところもあるかと思いますが、本日は国立公園90周年記念シンポジウムということで、有識者の皆様のそれぞれの立場から、今回のテーマが阿蘇山の火山信仰ということとですね、それぞれの立場からのご提言と、後半のパネルディスカッションで様々な議論ができればと思いますので、本日はよろしくお願いいたします。

話題提供
阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) では、まず最初に、今日ご登壇いただく皆様それぞれご専門がございます。それぞれの立場から自己紹介を兼ねて10分程度ずつ、まず話題提供ということでお話をしていただければと思います。まず最初に考古学の立場で島津先生の方からよろしくお願いします。
〇肥後考古学会会長(島津義昭氏) 島津でございます。私は考古学をやっておりまして、土の中から出てくるものがどういうふうな意味を持つか、それがその地域にどういう関係があるかを勉強しています。紹介していただきましたが、生まれは阿蘇市でありまして、阿蘇については非常に愛着を持っておりますし、いろんな考えることがありました。
今日はですね、打ち合わせの時に、発表時間は短いとありましたが、パワーポイント、電子紙芝居を作っていたら、とてつもない量になりました。駆け足で、大急ぎでやりますので、分かりにくいところあるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
今、画面にありますような題でお話をしたいと思います。実はこれらの一項目を話すのに大体1時間以上かかるような話です。しかし、これらを10分ぐらいでやってしまいたいと思いますので、ちょっと分かりにくい点があるかもしれませんけど話させていただきます。
これが私の今日の話の要点です。こういう話をいたします。1番から4番の項目です。阿蘇山は、これは当たり前のことを書いたのですが、昔から非常に大切に守られてきた山ですね。それはなぜだろうというと、阿蘇山自体は非常に神秘的な山であるというのが大切な点です。阿蘇山自体が霊山であり神・仏でもあります。
特にその中でも噴火口は非常に神秘的で、これに対してずっと人間は、特に阿蘇に住む人間は畏敬の念を持ってきたわけです。
5番目には、それをお祀りする阿蘇の社、いわゆる阿蘇神社ができました。
そして6番目、今日しっかり皆さんに言いたいのですが、阿蘇の信仰は間違いのない歴史から見ていつから始まったかという疑問です。昔から考えておりましたけれども、結論的に言いますと、6世紀には始まっています。どういうものかをのち紹介いたします。
7番目は、先ほど阿蘇山の山頂駐車場に行ってみますと、中国あるいは台湾、韓国の方、ベトナムの観光客の方がいらっしゃいました。実は、昔からアジアの中でよく知られて、特に中国人は阿蘇山について、非常に阿蘇山が変わった山であるという紹介をされております。
それと8番目は、これはもう今はほとんど、活動が少なくなりましたけれども、阿蘇山は修験道の聖地として非常に盛えまして、現在でも西巖殿寺では、修験に関係ある行事やお祭りがあっています。
次に9番目が、私はこのことを強く言いたいのですけれども、阿蘇山古坊中、この火山博物館の東側の原野には、まだまだ昔の「坊(ぼう)」の跡が残っているのですね。
これがなぜわかるかと言いますと、雨降り後にあの辺の谷に行ってみますと、当然昔のお寺で使ったお茶碗とか品物が採集できました。それともう一つ、非常に素晴らしいのは、原野の中に、昔の坊の時代に使った、昔の道がそのまま残っているんですね。
今日朝、原野で清掃をなさっていた皆さんとお話ししますと、まだまだ昔の道がずっと残っているよというとのことでした。私が、かつて坊を調査した時にも階段なんかがありました。立派な階段は今も残っております。これは、今からざっと言って1,000年、新しくて500年ぐらい前の道が、そのまま古坊中の中には残っておりますので、ぜひこれを何らかの形で活用し、大切にしていただきたいと思いました。
ここから阿蘇山がどういう記録に出てくるかという話をいたします。これは日本の天皇及び上から指定されて作った文献の一覧です、とくに『六国史』と呼ばれている本があります。この中に阿蘇山が出てきます。どの時代に作られたかは、表の通りです。
それと、その3番目に書いておりましたように、『土記』という書物の中に阿蘇山の紹介がやや詳しくあります。
考古学の立場からしますと、阿蘇山というのは祭祀遺跡(さいしいせき)といえます。お祭りのための遺跡です。今は、この分野をやる方はあまり多くありません。考古学では「神道考古学」という、神道に関する事物を研究しようという大事な分野です。この「神道考古学」では、今上に書いておりますように、自然のものを対象としたり、古いお寺とか神社の境内を調べたりする研究します。阿蘇山はこの「神道考古学」でも非常に重要な聖地です。
これはご承知の通り阿蘇山です。実はさっき環境庁の所長と話しましたが、阿蘇山というのは、どれが阿蘇山ですか、という人がいます。実は、阿蘇山というのは全部なのです。つまり、極端に言えば、外輪山も含めて外輪山の裾も含めて阿蘇山です。ここには書いているように数万人の現代の生活があります。
その阿蘇山について、私たちの立場からの大きな声で言いたいのは、阿蘇山は日本の山で最初に外国の文献、つまり中国に紹介された山です。この記録がいろいろあります。
これは阿蘇山について、いろんな時代にどういうふうに言われてきたかの一覧に書いたものです。大体ここにあります全時代に、考古学では先史とか原史とか、そういう言い方をしますけれども、これらの時代について、阿蘇山の研究及び阿蘇山がどういう山かということはあります。
阿蘇と言いますと、阿蘇の範囲はどのくらいかが問題です。現在は行政区で決まっていますけど、昔はどうだったでしょうか?これは阿蘇神社をお持ちの昔の阿蘇の境界をかいた「阿蘇文書」です。ここに示している文書は、東京帝国大学の調査した時に、後の時代に書かれた文書であると考えられ、そのように解説してあります。しかし書かれている事柄は、そういうことはなくて、一番上の段の右のように、東側は宇歩山(うぶやま)、現在の阿蘇市産山、そういう具合にしてずっと地名を調べていきますと、今の阿蘇郡内の地名になるのです。少なくとも11世紀には郡の境界は確定していたということは間違いなく分かリます。この文書の実物は、阿蘇神社が所蔵しています。
次にまいります。これが、阿蘇山を昔の人が考えた、最初の考古学資料だと思います、古墳です。昔の豪族のお墓です。国造神社の下にありまして、これは上御倉(かみおくら)古墳、6世紀の大きな豪族のお墓です。この豪族のお名前は何かといいますと、残念なことに、この葬られた方のお名前は分かりませんけれども、周りに国造(こくぞう)神社があります。国造(こくぞう・くにのみやっこ)とは、古代の阿蘇国の首長で、地域を治める今でいえば、知事さんみたいな役割になります。その人のお墓ですね。このお墓は昔から口が開いておりました。これは現在でも中に入ることができます。
これは図面です。分かりにくいのですけれども、奥に部屋が2つありまして、非常に長さが約9メートル。高さはここに書いていますけど、3.7メートルあります。手を上げてもつかないような奥の部屋。今からお話ししますのは、この入り口の石に面白いことがありました。
これですね。昭和33年に山鹿高校が調査しました。これは皆さんご存じの通り、高校の考古学活動の中で一番活発に活動されていた高校です。その高校の顧問は原口長之先生で有名な考古学者です。
その上御倉古墳の入り口の石、おそらく入口を塞ぐための石(閉塞石)でしょう。そこにはこういう絵が描いてあったのです。これは皆さん何に見えますでしょうかね。まず上の方、これが原口先生の解釈では阿蘇山だとされました。これが噴火口かもしれません。その前に人がいます。この人は、どうも阿蘇山の方を見て、原口先生は拝んでいるじゃないかと考えられています。果たしてこの人物は拝んでいるかどうか分かりませんけど、一応阿蘇山について描かれた一番古い資料で、これは6世紀です。ところが残念なことに、これが今ないのですよね。ぜひ、この石に書かれた絵を見つけていただければいいと思います。
これが、阿蘇山に書かれました中国の文献で一番古いものです。これは7世紀ぐらいの中国の隋という国の中に、こういう阿蘇山のこれを書いてあります。阿蘇山との記事がどこにありますか、ここですね。この下に、阿蘇山があって色々と書いてあります。中国で書かれた一番古い文献です。次に15世紀になりましても、中国の書物の中に、日本の国に阿蘇山があって、火を噴いて火が天に接しているとあります。永楽3年というのは年号です。この時に当時の中国の永楽帝が阿蘇山に対して「壽安鎮國山(じゅあんちんこくさん)という号を与えたという記録があります。
これは阿蘇の皆さんはよくご存知だと思いますけれども、高森にあります山村酒造さんは、このことを知って「寿安山」という純米吟醸酒を出されています。非常に美味しいお酒です。阿蘇の歴史を踏まえた由来ある名称です、中国の王様がやはり阿蘇山はすごい山だと、こういう号を捧げられたのです。
今まで言いましたことをまとめたものです。要点だけ言いますと、中国の隋の時代に書かれた本の中に阿蘇山が出てきて、後に中国では非常に阿蘇山が有名になって、「壽安鎮國山」という号を与えられたという話でした。
日本にもこのことを考えた方は、やはりたくさんいまして、学者は「壽安鎮國山」は、おそらく今の阿蘇山だろうということ考えいました。
次に、阿蘇山の噴火口が非常に重要だとお話しましたけれども、何で重要かと言いますと、阿蘇山噴火口とは昔は当然言わないわけですね。一番上に書いているように「神霊池(しんれいち)」と言ったり、これを「寳の池」と言ったりしました。これは仏教側では「寳池」、あるいは「寶の池」、神道側では「神霊池」と言いました。
そして、これが一番古い記録は8世紀の「日本後紀」という本の中に、肥後の国の阿蘇山の山上に有名な池があって、非常に珍しいことがあったというような記録があります。
これは今言いましたように、阿蘇山噴火口のことです。日本も神道の考えの中に「みたて」という、あるものを何かに例えるという考え方があって、そこで阿蘇山の噴火口から出てくる煙は非常に雄大であるので、健磐龍命(たけいわたつのみこと)という神様がいらしたという解釈をしたわけですね。これはさっきの神霊池、火口と噴煙を神としてみたてたものです。
神霊池は非常に不思議なもので、爆発したり、池ができたり、干上がったりするんですね。その都度に、阿蘇郡の郡の役所から大宰府に報告します。当時の九州の政治の中心地は大宰府にありました。大宰府にこれを国に報告すると、国は神霊池に対して封録する封戸(ふと)を決めます。ここでは国に収めるべき租税のうち調庸(ちょうよう)という税は、封主(阿蘇の神)に対し給します、優遇措置ですね。つまり税金の特別免除措置なのですよ。国家に納める税金が封戸から封主におさめられますが、神様に納めることになりますので、この封戸を神戸(かんべ)といいます。神戸の税は全部、神様つまり阿蘇神社に納めたわけです。
そして、平安時代の843年には「笏(しゃく)」を持つことを許可されました。儀式などで手に持つ長方形の薄板ですが、やはり神職が笏を持てるというのは、非常に国家的に大切な格式のあることなのです。阿蘇神社の場合にはこのような「笏(しゃく)」を持つ神社になりました。
阿蘇山の神霊池につきましては、いろいろな出来事がありました。特に9世紀には大きな事件があっています、この神霊池にあった比賣神嶺(ひめがみのみね)というこれも神様ですが、ここの3つ石神(いわかみ)があって、これ落っこちたという記録が当時の本の中に出ております。
当時の阿蘇山がどういうものであるか、全部漢文で分かりにくいので、次に分かりやすくしています。
これは、さっきの漢文、今の分かりやすい日本語にしました、ちょっとこれでも分かりにくいですね。
これが現代文に翻訳したものです。当時の『土記』という本の中に、阿蘇山に神秘的な池があって、その池の広さが何メートルと書いてあって、非常にこれは天下の珍しい景で、そこから雲が湧きたって、時にはこれが溢れて流れ出して魚が死んでしまう。だから土地の人、これを苦水(にがみず)というというふうに書いてあり。これは今の阿蘇山の噴火口のことです。今とそう変わらない。そしてこの阿蘇山はこの辺の山の源、水源であるということも、この時代1000年前の本の中に書いてあります。
今話したことを要約するとこういうふうになります。つまり阿蘇山に霊池があって、そこから苦水という水が出始めて、それが川に流れ出して魚が死んでしまう。そこには閼宗神宮(あそのかみのみや)というのが作られた。つまり現在阿蘇の字はこんな書きません。昔はこんな字に書かれた本があります。そしてこれは阿蘇の噴火口自体を神宮、社にしていたわけで、これは平安時代の話です。
それでは、阿蘇山の噴火口は昔から現代まで同じかというと、実はそうじゃないのです。そうじゃないとはどういうことかと言いますと、次お願いします。
現在ここは火を噴いています。昔の噴火口はこの辺にありました。現在の火口より南側です。時代がさかのぼるにつれまして、噴火口がだんだん北に移動しています。今日の噴火口、噴煙が上がっているのはここです。神様がおられたと考えられていたのは、私の推定では、当時の噴火口は、ここですね。今より南になります。先の三石神(いわがみ)の話は、おそくこの場所だろうというふうに思います。
これは現在の火口です。南のずっと手前に、こういうふうな昔の噴火口があります。これがいま話した奈良時代、平安時代の火口なのですよ。そして、『日本三代實録』という本の中に書いてある三つの石神は、このあたり石が壊れたのだろうと、私は解釈しています。
これも皆さんはよくご存じの通りで、阿蘇の神社はどれだけ偉いかと言いますと、延喜年間、平安時代に書かれた本の中に、熊本県の代表的な神社の名前が書いてあるんです。全部が阿蘇の社なのですよ。一か所だけ玉名郡の疋野(ひきの)神社がありますが疋野神社を除いて、当時の国家が一番大切にする神社は、この阿蘇の神社ですね。
神社の歴史がこういうふうにいろいろありますが、問題はですね阿蘇神社は最初にどこにあったのだろうか、というお話を少ししたいと思います。
これはさっきも話しました、奈良時代に書かれた『土記』の中に、いろいろなことが書いてあります。阿蘇の郡家(ぐうけ)とは、阿蘇の古代の役所ですが、火口から見て坤(こん・ひつじ)の方向にあるということが書いてあります。これを今の地図で調べてみますと、役犬原あたりです。役犬原あたりに古代と言いますか、奈良時代ぐらいの役所があったというふうに思われます。これはまだはっきり調べていません。所在地の確定は今後の大きな問題です。
昔の役所は、郡家(ぐうけ)と言いましたけれども、阿蘇郡家は役犬原の付近にあり、古い地誌の中に、ここの郡家の方の東側に、二つの神、阿蘇都彦(あそつひこ)と阿蘇都媛(あそつひめ)を祀る神社があると書いてありますので、これは阿蘇の方はご存じかもしれませんが、ちょうど役犬原の東側が阿蘇神社ですね。だからこれが書かれた奈良時代、つまり1400年ぐらい前から阿蘇神社が現在のところにあったということが分かりました。これが阿蘇神社のことが書いてある『土記』という本です。
これは、阿蘇の山頂にあった坊(古坊中)が下に降りてきて、麓に新しい坊が栄えたのを図面を描いたものです。この原図は西巌殿寺(さいがんでんじ)にあったものを、明治以降どなたかが写したのです。これは現在の黒川の駅のところですね。そこにこういうふうに立派なお寺とはいいません、坊ですね、坊があったという記録です。これが今の西巌殿寺の前を通る登山道になった。昔はここからこう行ったわけですね。ここから登って山頂付近にあった古坊中にあがってきたというわけです。
最後にもう一回言いますけれども、阿蘇山は昔から尊まれてきまして、山全体は神様です。その理由は、阿蘇山が非常に雄大で盛んに活動していること、そしてこれは神様と仏様の一つの神殿は活動を表すものだとされました。そしてその麓にあります阿蘇神社が肥後の一の宮でありまして、1500年ぐらい前から崇拝の対象になっております。
そうすると、考古学の資料では、阿蘇山は6世紀ぐらいから信仰があって、物的証拠があります。そして最後に、阿蘇山は中国にも広く知られています。「壽安鎮國山」という名前で記録をされています。それと同時に、山上の修験道の阿蘇山の坊(古坊中)は、山麓に移動して今日の西巌殿寺になりまして、今でもその法灯を伝えております。
それで最後に私が言いたいのは、9番目に書いているように、阿蘇山の古代から中世の古坊中の貴重な遺構とかお寺の跡はまだ現在残っておりますので、ぜひ現時点で何らかの記録をしていただければ幸いだと思い、早口になりましたけど、後からのシンポジウムで補足することとし、また足りない点が多くありますが、一応終わらせていただきます。
どうもありがとうございました。
阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) 島津先生、ありがとうございました。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) 次に、民俗の立場から佐藤征子先生に提案、話題提供をお願いいたします。
〇元熊本県文化財保護審議会委員(佐藤征子氏)佐藤と申します。よろしくお願いいたします。
実は私と阿蘇との関わりというのは、今島津さんがお話になったことと非常に深いつながりがありまして、本来ならばもう30年ほど前に島津さんが主体となって古坊中の発掘調査が行われる予定であったのです。ところが、火山活動が活発であったために調査は中止、発掘調査はできなくなったのです。そこで、阿蘇についての文献調査とか聞き書き調査ということが主体となりまして、私がその部分を担当したわけです。私はそれがきっかけとなりまして、それまでは阿蘇に特別関心がなかったのですけれども、聞き書き調査と文献調査を始めました。いろんな所に伺って聞き書きをし、何かあると話を聞きに行くということになりました。阿蘇市で、宮本さんもいらっしゃいますが、いつか古坊中の発掘調査を是非行って頂きたいと思います。私がこれから発表しますのは、聞き書きと、それから文献調査によるものです。
先ほどもお話がありましたけど、阿蘇山について書いている一番古い記録としては、中国の隋の時代に書かれた「隋書」の中にある倭国伝です。ここに阿蘇山のことが書いてあります。隋書には日本の他の山のことは書いてありません。阿蘇山だけです。文中に如意宝珠ありと書いてあります。その色が青く、大きさ鶏卵の如く、夜は光あり、魚の眼精なりというとあります。如意宝珠ありという記述が南郷に伝えられていた様です。江戸末期に長野内匠という方が書かれた「南郷事蹟考」という著作があります。
ご存知の方もいらっしゃると思いますけれども、慶應二年に書かれています。阿蘇山に如意宝珠ありという、その故に当郡中は闇夜にもあかしと言えりとあります。如意宝珠が阿蘇にあるという話が1,000年以上にも渡って伝えられていた、語り継がれていたとは凄い事だなと思います。
阿蘇山の噴火口を健磐龍命がここにいらっしゃるという意味で神霊池と言います。仏教側からいうと、噴火口は宝池という言い方をして、その宝池に十一面観音がいらっしゃるということで、坊中という仏教徒の集まりが組織されます。開祖が最栄で、最栄について二説あります。
一つは、非常に古い話ですけども、神亀三年に天竺から来た最栄が阿蘇で修行を始めたという説です。最栄は舎衛国から来たという説と、毘舎利国から来たと二説あります。別の説はもっと下って、比叡山に慈恵大師という優れたお坊さんがいらっしゃいますが、その弟子筋に当たる最栄という人が天養元年にやってきて、ここを仏教徒の修行の場としたという、二説があります。
十一面観音が御本尊ですけども、神様としては健磐龍命だという解釈がされています。
山上にあった坊の組織のことを坊中と言います。本堂が西巌殿寺で、衆徒が20坊、行者が17坊、衆徒と行者の配下に山伏が50人から60人位いました。衆徒と行者の住まいが坊で、山伏の住まいが庵です。
行者と山伏は峰入りを行って、阿蘇山のお札を配って歩きました。
阿蘇参拝というのは、非常に古い時代から行われていまして、坊が参詣者の宿坊になっていました。女性の参詣者も坊に泊まっていましたが、阿蘇氏からクレームがつき、女性を泊めるとは何事かということで、正平7年に10歳以上60歳未満の女性は、尼といえども泊まってはいけないと禁止されました。宿坊はかつて女性も泊まっていたことを、窺わせる史料だと思います。
山上に行くために、鹿渡橋(シカワタリバシ)と読むかどうかわかりませんけど、鹿が渡る橋というのがありました。洪水によって墜落したので、文明13年に山伏が中心になって再興しています。参詣者は橋賃を免除されますが、通行人は心付け次第払って渡ります。以前からこの橋がどこに架っていたのかなと思っていまして、数鹿流ケ滝(スガルガタキ)という滝があり、鹿の文字が入っています。恐らくあの辺の鹿の地名がつくところにかつて橋があったのではないかなと思っております。
それから、湯屋が当時からあって、湯屋の棟上げ史料も残っております。
冬の間は、山上では過ごすことが出来ませんので、里坊といって南郷の方で寒い時期を過ごしていたと思います。ここでは酒も作っていたらしくて、酒の売買も史料に残っています。秋から酒作り始めます。新酒より極月迄は25文で、あと段々と値段が高くなっていきます。
この様に山上は本堂を中心に坊舎や庵が建ち並び、なかなか栄えていました。
しかし、皆さんも御存じの様に、大友氏による支配、大友氏が衰退したら島津氏がやって来て支配するという状況になり、僧徒集団は山上から諸方へ落去してしまいます。その後、秀吉が九州を平定しました。
山上から衆徒・行者及び山伏達は下りてしまったわけです。(写真―昭和32年古坊中空中写真)これは雪の日、古坊中一帯の空中写真で、四角の区画がかつて坊舎の跡ではないかと推測されます。
その後、清正が彼らを呼び寄せて黒川村に作ったのが麓坊中です。山上時代を古坊中といいます。衆徒と行者の坊舎は新たに作られますが、山上には西の巖殿と言われる本堂と多数の堂舎はそのまま残っていました。
そのために山上にお参りする人がいたのです。彼岸参り、あるいはお池参りと言います。噴火口のことをお池さんと言っていたわけです。春秋の彼岸は山上本堂の内陣で、衆徒と行者が勤行を行っていました。その後、衆徒と行者の配下の山伏が務める様になります。「肥後国誌」に春秋の彼岸は御池拝所に多数の参詣者があり、彼岸の翌日はお池より水が湧き出て、参詣者の不浄を洗い流すと伝えられていると書かれています。
彼岸の時には、商人たちが小屋掛けしていました。お参りする人がたくさん来るから、商人たちが店開きしていたわけです。衆徒の成満院と万福院が自分たちの坊舎は以前、ここにあったから、商人たちが小屋掛けするなら、それなりのお礼をしてほしいと細川藩の役人に訴えています。商人たちは以前、何がしかのお礼をしていましたが、しなくなったので訴えたわけですが、残念ながら不許可になっています。春秋彼岸に沢山の人達のお参りが盛だった様子が窺えます。
お池参りにまつわるものとしてご存じの方も多いと思いますけれども、左京が橋あるいは写経が橋の伝説があります。左京何某という若者がその橋を渡ってお参りをしょうとした時に、橋に小さな蛇が出てきたので、それを払いのけようとして切りかかったら、その蛇が龍になり、彼は命を落とした。それで左京が橋と呼ばれる様になったという伝説と、もう一つはこの橋のたもとに西巖殿寺を開山した最栄が写経した巻子が埋めてあるという写経伝説があります。
盆の行事として、盆踊を今でも続けているところがあります。地区の人々が亡くなった人の家を訪ねて、口説き手が口説き(物語)を語り、地区の人々がそれに合わせて盆踊りをします。口説きに「お清一代」あるいは「お清口説き」というのがあります。熊本のお清という女の子が友達を誘って阿蘇参りに出かけます。友達はみんな左京が橋を渡ってお池(噴火口)まで行けたけど、お清はどうしても渡れず、あえて渡ろうとしたら、たちまち彼女は龍に変身して命を落としてしまうという口説きです。なぜこんな悲劇にお清が見舞われたかと口説きで語るには、実はお清の家はお米屋さんで、人から買うときは一升二合升を使って一升とし、人に売る時は八合しか入らない升で一升として売る。そんな非業をやっている親の報いが悲劇になったという口説きです。玉名地方の口説ではお清のお父さんは船頭さんだった。船で人を渡す時に、乗せた人を川に落として荷物を奪うというあくどいことをやっていた。そこでお清は龍に変身したと口説きます。
阿蘇山のお札配りは肥後全域を廻ったらしくて、天草・高浜村庄屋の上田宜珍という方をご存知の方も多いと思いますけれども、日記に阿蘇山の成満院に仕えている山伏の金光坊がお札配りにやってきたと書かれています。阿蘇だけでなくて英彦山や求菩提山からのお札配りも行われていた事が日記から分かります。
阿蘇に参拝に出かける阿蘇講とか阿蘇参りについての記録が残っています。阿蘇参りについて、町村史に紹介してあります。参考にしてみて下さい。
八丁村(現甲佐町)の若者たちは、天保六年にお金を出し合って阿蘇参りに出かけています。上土村(現八代市)の若者たちは、お金がないので秋に米で払うからと言って五俵分のお金を借りてお参りしたという史料が残っています。
明治以降も阿蘇参りが続いています。
千丁村(現八代市)の場合だと、お参り行った人をサカムカエ、そして出迎えた人たちに黒菓子を配り、酒宴を催していたそうです。
下垂水組(植木町)の場合は、大正九年九月から阿蘇講帳という記録簿があり、阿蘇参りは維新前から続いていると書いてあります。九月の彼岸に三人が参詣します。
矢部町では地蔵峠、駒返り峠、多津山峠を越えて阿蘇参りに出かけていました。その後は代表者が行くようになって、住民総出で酒(坂)迎えをしていていました。お清の伝説が反映しているのかもしれませんけれど、嫁入り前の娘は、一度は参詣するものとされていた地区もあったそうです。
益城町の場合は、昭和初期まではクジ参りといい、クジで当たった人が一週間の予定で阿蘇参りに行き、地獄温泉に泊まってゆっくりしてお参りしていました。
甲佐町には阿蘇参拝の記録、名簿や規則が残っています。
阿蘇神社の池浦さんから教えて頂いたのですが、山上に行った後、阿蘇神社に参拝して御札をもらって帰るそうです。先ほどお話を聞きましたけど、最近は参拝する地区数が減っているとのことでしたが、代表者による阿蘇参りは続いています。
最後ですけども、夏目漱石が阿蘇の五岳に対して、「これは大きな涅槃像」という言葉を残しています。
この写真は阿蘇神社による火口鎮祭です。
駆け足で報告しましたけれど、大丈夫でしょうか。失礼いたしました。
阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) 佐藤征子先生、ありがとうございました。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) では次に、宗教信仰の立場から阿蘇神社の池浦様、よろしくお願いいたします。
阿蘇神社権祢宜・文化財担当(池浦秀隆氏) 皆様こんにちは。阿蘇神社の池浦でございます。私は福岡県の生まれで、熊本市内で育ちまして、元々神社の家系に生まれたのですが、縁があって阿蘇神社に随分長くお世話になっております。基本的に神社の方では神事にも奉仕していますが、時々こうした文化財とか学芸的なものにも参加させていただいています。
昨今までは、いろいろと熊本地震の復旧復興関係のことが結構多くて、純粋にこうした阿蘇神社歴史をテーマにした催しはありませんでしたので、そういう意味で、今日は久しぶりで非常に嬉しく思っているところです。
さて、私の内容は、島津先生と佐藤先生が既に歴史の論拠になる史料や文献を詳しく挙げていただきましたので、私は阿蘇神社の火山信仰というものを概念的、構造的にお話したいと思っております。自身の分野をちょっと越境しますが、阿蘇火口をめぐる神の領域と仏の領域の話になります。
さて、この写真は、3年前の10月に阿蘇山が噴火した時に私が撮ったものです。結構近くに見えますが、阿蘇神社と火口の距離は大体7キロくらい離れております。こういうふうに噴煙が立ち上ると、それなりに緊張感が高まる状況になろうかと思います。
ところで、普段皆様もそうだと思うのですが、こういう噴火を意識して生活されている方はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。多分あまりいらっしゃらないのでは、と思います。こうした観念というのは、実は阿蘇神社がどのような神社なのか、一般的な認知を現していると思います。阿蘇の神は火山の神ですよ、と思っている人は、そんなに多くないのではと考えています。たまにこうした火山活動があると、阿蘇の神の性格と結び付けられることにになろうかと思っています。
次に、これはもう何回もお話が出てきていますが、いわゆる阿蘇神社の御神体は阿蘇の山頂にある火口でございます。火口を上宮と呼んでいるのは、古文書の中に出てくる用例です。音読みでは上宮(ジョウグウ)ですが、上宮(ウエノミヤ)かもしれません。それから麓にあります、普段皆様が足を運んでいる阿蘇神社は、下の宮(シタノミヤ)、もしくは下宮(ゲグウ)と表現されてきました。こうした火口は、非常に重要な阿蘇神社の根本になる場所でありますが、普段皆様方が阿蘇神社の性格を考えるとき、火山神と認識するウエイトよりも、農耕の神と認識するウエイトの方が大きいと思います。
他にも、阿蘇神社歴史性には、阿蘇大宮司の評価を阿蘇神社歴史に被せて表現されることが結構多いように思いますが、厳密にいえば、阿蘇家の歴史というのは阿蘇神社歴史ではないんですね。これは近代以降に阿蘇家が阿蘇神社の実質的な代表者になって(祝詞を上げたりする)いく中で、阿蘇家の歴史阿蘇神社歴史として置き換えられていく、そういう傾向もあろうかと思います。
そうした中で、この火口を御神体とする火山信仰というのは、本来は阿蘇神社歴史性の根幹になるところでありますけれども、現在はどちらかといえば農耕の神とか、今日は観光関係の方々も結構いらっしゃいますが、普段は農耕に関わるお祭りを毎年繰り返しやっていますから、それが観光資源化されて表現されることが多いという意味では、火口の神という部分は少し覆い隠される傾向にあろうかと思います。
さて、この阿蘇山の火口につきましては、江戸時代の記録を見ると、火口のことを神の池と書いて神池(ミイケ)という呼び方をしております。それから、この火口というのは、仏教側の信仰対象としても重要な場所ですから、火口のことを宝池と呼んでいます。この絵図は江戸時代の仏教組織(坊中)の様子を書いたものです。こちらの江戸時代の阿蘇神社の様子を描いたものです、現在の社殿が建つ前の阿蘇神社の様子で、朱塗りの建物となっています。上の方には火口が描かれています。火口というのは、神仏両方の宗教組織にとって重要な場所であったということを、まずは踏まえていただきたいと思っています。
さて、現在でも阿蘇神社にとって、火口は重要な場所であることに変わりありません。この写真のように、年に一回(6月の上旬)に火口の淵に行って火口鎮祭を執行します。火口の活動が平穏であることを願って、火口の神への捧げ物、御幣というものを投げ入れます。これは阿蘇神社の中で唯一火口に関するお祭りです。年に一回だけですが、火山活動、火口の周辺にガス規制が出ますと、その影響で執行できなくなりますので、また翌年になってしまいます。
さて、ここで位置関係を整理しておきたいと思いますが、阿蘇カルデラの中の北側の阿蘇谷の東端に阿蘇神社があります。仏教拠点の坊中は中世には阿蘇山上にありまして、今は古坊中という遺跡になっています。近世になると麓の方に拠点が移ります。それでも阿蘇の山頂には山上本堂という仏教の拠点がありました。一方で、火口に対する阿蘇神社の拠点は山の上にはありませんでした。
先ほど佐藤先生のお話にありましたとおり、「阿蘇参り」という習俗では、肥後の国の各地から、特に上益城、下益城の方からたくさん阿蘇の火口にお参りしました。その人たちを受け入れたのは、仏教組織「坊中」の人達でした。ところが、明治政府の政策で仏教組織が廃止されたことは皆さん聞いたことがあると思いますけれども、山上にあった本堂は麓に移築されたため、山の上の仏教側の拠点が空いてしまうわけです。やがてそこに阿蘇神社の拠点である阿蘇山上神社が建てられて、山上に阿蘇神社側の拠点が築かれることになります。先ほどの佐藤先生の話にありました「阿蘇参り」の人達も、阿蘇神社側が受け入れるということになって、今に至っています。
つまり、阿蘇神社は山上ではなく麓の阿蘇谷に、農耕の祭りをする場所が各地にあって、そこで年間を通していろいろな神事を行っていくエリアを形成しています。そこは農耕祭事が展開される範囲でありますが、この範囲は湿地帯でありますから、ここで農業を営む集落がたくさん形成されて、そうした人々の生業と関わりながら、農耕祭事が当然行われていくわけです。一方、山岳地帯というのは阿蘇山の火口を中心に、もともと仏教側の人たちの拠点があったところであり、この山に登っていく人たちを受け入れるのは仏教の人たちで、そうした歴史的なエリアが形成されている本質的な構造があるわけです。
これは江戸時代の話ですけれども、例えば阿蘇火口が噴火しましたとか、たまに火口周辺で亡くなった人が見つかった事例、また火口の中で誰かが粗相して宗教的に火口を穢すような事例が起こりますと、その火口というのは聖域でありますから、ご神体である阿蘇神社側にとっても、よろしからざる事例になりますから、山に登って何かお祓いをする記事が江戸時代の記録に時々出てきます。でもそこは、通常は坊中の人達のある意味で縄張りみたいなエリアですので、火口はご神体であるということで、神社側の人々が時々割り込んでいく構図があります。
現在でも火口の祭りをやっていますが、江戸時代は熊本藩の依頼で定例祈祷をやっています。それは春の旧暦3月に五穀成就を祈願する祈祷であるとか、また公儀(幕府)のために阿蘇の火口に対しての祈祷を年に3回執行するわけですが、そういう時には阿蘇神社と坊中が両方で祈祷することになっています。とくに神社側は、春3月の祈祷の場合、その流れで火口に登山して、何かしらの神事を行っている記事が出てまいります。
つまり、繰り返しになりますけれども、通常は火口近辺に仏教の人達のテリトリーが形成されていて、そこに阿蘇神社側が時々割り込んで神事をしている、そういう関係性になります。これが明治を迎えますと、仏教側の拠点が廃止にされ、その後、阿蘇神社の拠点である阿蘇山上神社がここに建てられる、そういう成り行きになります。
さて、こうした火口というのは、阿蘇神社側にとってみれば、今でも変わらぬ大事な御神体という位置づけで、ここに神様がいるんですよ、そういう捉え方は未だに続いているわけですが、歴史的にみても、仏教側にとっても重要な場所になるわけです。宗教的に火口は聖域でありまして、ここは清浄な状態を保つべきところである、そういう観念が求められたところであります。
それが近代になりますと、今日は国立公園90周年という、そういう日になりますが、阿蘇山上に登る利便性が高まって、道路ができて、今では車で簡単に火口まで行けるようになっています。今はなくなりましたけど、ロープウェイもかけられていた時代も長く続きました。聖域に簡単に行ける、そしてさらにそこが現代では観光資源としても重要な場所になっているわけです。
私はこうしたことを、次のディスカッションにつなげる意味で上げさせていただきましたが、前近代に宗教的な意味が非常に強かった信仰対象である火口が、同音異義語ですけど、今では振興の対象としての価値が高まっている、そういう経過があること上げさせていただきまして、私の報告を終わらせていただきたいと思います。
ありがとうございました。
阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) 池浦様、ありがとうございました。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) 続きまして、国立公園の立場から環境省の笠原様、お願いいたします。
阿蘇くじゅう国立公園管理事務所長(笠原綾氏) 環境省阿蘇くじゅう国立公園管理事務所の笠原です。
今日は12月4日という国立公園がまさにこの日に指定された日になりますので、「国立公園ってそもそもどういうところか」というご紹介と、先ほど信仰と振興という話がありましたけども、国立公園の中でもその振興をどういうふうに取り入れられるかということについて、考えていきたいなと思って資料を作っております。
自己紹介ですが私は阿蘇出身ではなくて、あまりこの阿蘇をずっと見てきたという立場ではないんですけれども、いろんなことをやってきていて観光についても一定程度は仕事をしてきたということがあります。今この地域の資源を生かして、地域のためになるような観光について、どういうふうにすれば良いかということをいろいろ考えているところです。
まず、日本の国立公園なんですけれども、最初に柴咲コウさんのビデオを見ていただいたとおり、昭和9年3月に最初の国立公園の指定がありました。それが雲仙、霧島、瀬戸内海というところから始まっています。阿蘇くじゅうは、当時は阿蘇国立公園だったんですけども、同じ年の第2弾、12月4日に指定されたという公園です。国立公園は、法律上は「我が国の景を代表するに足りる傑出した自然の景地」と書かれていまして、簡単に言ってしまうと日本の宝ですと我々は申し上げています。
世界にも類のない美しい自然を日本の宝として未来に引き継ぐ役割があります、景は目で見るだけじゃなくて、五感を使って全体で感じるものなので、ただ見た目だけで美しいじゃなくて、例えば香りとか特に火山とか行くと硫黄の香りがしますよということから、火山が生きていることが分かったりだとか、そういうことも含めて景を感じていく。それが景地ということです。
あと、柴咲コウさんのビデオの中でもありましたけど、生物多様性というものも大事で、阿蘇で言えば草原の中で草原にしかいない生き物もいっぱいあります。そういう意味でも、日本の生物多様性保全の屋台骨になっています。
もう一つの日本の国立公園の特徴なんですけれども、「地域制自然公園制度」です。漢字だけではなんだろうという感じがすると思うんですけども、アメリカの国立公園について聞いたことあるかもしれませんが、こちらはテーマパーク型というか、全ての土地をアメリカの国立公園局というところが持っていて、全てを国が完全に管理しているというタイプの公園です。
そういうシステムを持っているのはアメリカとかカナとか、土地が広い国はそういう制度が持てるんですけれども、日本とかイギリスとかイタリアとか、国が割と小さいところは、既に土地の利用が進んでいるので、そういう制度は取れない。なので土地所有にかかわらず、国立公園を線状で決めて、中には普通に人々の暮らしがあったり、あるいは農林水産業があったりして、それを調整しながらやっていくというのがあります。
関係者が連携してみんなで一緒に協働で管理運用していくということが重要になってきます。まさに阿蘇も私も今ここに住んで、ここで仕事をしているんですけども、住む場所も仕事してる場所もみんな国立公園の中という、日本を代表するこれが日本の国立公園だと説明しやすいような場所だなと思います。
3番目としては、「自然とのふれあいの場」で、利用することも国立公園の大事な役割になってきます。もともと国立公園の制度ができたのも、90年前にその当時のインバウンド、外貨を獲得するために作ろうという動きがあったんですけども、利用もするし、保護もするという両輪があります。自然との触れ合いを提供する場所で、自然の知識だったり、歩いたり、アクティビティーをすることで、健康の増進だったり、レクリエーションだったり、あるいはそういうことをするために利用のための施設整備ということで、歩道を作ったり、案内板を作ったり、イベントを開催したりということをやっているのが国立公園になります。
阿蘇くじゅう国立公園ですが、今書いてあるとおり赤字にしていますけども、今年指定90周年を迎えます。阿蘇地域とくじゅう地域があって、一番最初は阿蘇国立公園という名前でした。もともとくじゅう地域も入っていましたが、名前がついたのは昭和61年で、くじゅうというものがついて、その時から阿蘇くじゅう国立公園になりました。
形としては阿蘇とくじゅうがくっついているひょうたん形になっています。阿蘇の特徴としては、世界最大級のカルデラで活火山である阿蘇山ということと、あとくじゅう地域を見てやはり火山が特徴になっています。
同じように草原もあって、県はまたぎますけれども、同じように人の手が入って草原維持管理してるという似たようなところもあります。
うちの事務所をちょっとご紹介しておくと、阿蘇の事務所に今12人いて、くじゅう事務所には3人いて、全体で15名程度の人数で7万ヘクタール以上管理しているという状態です。人数が少ないので絶滅危惧種みたいなことを言われることもあるんですけれども、見られたらハッピーだと思って見ていただければと思います。
あと、草原を守るために国立公園になっていないところにも今の国立公園の草原と同じような区域が広がっているということで、今年度中に国立公園の範囲で、阿蘇地域が3,000ヘクタール程度広がる予定になっています。広がることで、国立公園としても草原を維持するための支援をしていくということで、今手続きを進めているところです。
もう皆さんご承知だと思いますが、阿蘇くじゅうの価値としては火山があります。観光客の方が火口をのぞき込むことができる、世界でも珍しい活火山です。
次はカルデラ。さっき私が申し上げたとおり、今この中に我々が住んでいるのは4万人といわれていると聞いていますけども、人がこれだけ住んでいるという世界でも類を見ないような場所になっています。
そしてもちろん草原。人と自然の共生による野草を活用してあか牛を飼ってということで、日本最大規模の草原が国立公園の景観を大きく作っています。
ただ、もうご承知の通りなんですけども、野焼きだったり放牧だったり採草だったり、いろんな人間活動が必要で、草原を維持していくのも今なかなか難しい状況があるというのも同じように続いているところです。
くじゅうのご紹介をしておくと、「九州の屋根」とよばれるくじゅう連山や由布岳、鶴見岳ということで、90年前に阿蘇国立公園ができた時の資料を見ると、大観峰から見た時のカルデラの景色と、反対側を見ればくじゅう連山まで見え、またちょっと違う形ですけど、草原が並々と続いているということが評価されたというふうに書いてあります。
日本の国立公園は今年の6月に北海道で日高山脈襟裳十勝国立公園っていうものが国定公園から国立公園に格上げされまして、全国で今35ヶ所あります。
今回のシンポジウムのために、山岳信仰がどれだけあるんだろうっていうのを調べました。ちょっと網羅することは難しかったんですけども、これだけ今あります。特に国立公園の中で有名なところというと、磐梯朝日、出羽三山と呼ばれているところで、山伏の方がいらっしゃるところとか、あと白山や富士山。どちらかというと信仰というよりオーバーーリズム的な登山が有名になってしまっていますけども、そういうところがあったり、あと吉野熊野の巡礼参りで歩くというところがあります。いま山岳信仰のあった場所が、そういうところの道を自分も今歩いているということで、その歴史だったり文化だったり、信仰の思いだったりを改めて感じ取りながら、国立公園を楽しむというような国立公園の利用の仕方というのも出てきているところです。
今回のシンポジウムのテーマとして一緒に考えた時に、麓と火口をつなぐ阿蘇の古くて新しい楽しみ方というのがあると感じています。冒頭に市長からもご紹介ありましたけども、国立公園満喫プロジェクトを開始しまして、2016年から始まったんですけども、自然環境を保護しながら利用していく好循環をもう一回見直そうということで、今利用の方も進めています。
草原であれば草原をマウンテンバイクで走ったり、特別な空間で走るっていうことをやっていますけれども、登山道を整備したり、遊歩道を整備したり、園地を整備したりハード面のことも一緒にやっています。これは環境省だけではなくて、色んな自治体さんとも一緒にやっているものです。
こういうことをやっている中で、阿蘇の今の取組の中で、ちょっと文化面が弱いなっていうのは感じていて、今まさに今日も会場に来てくれていますけど、このガイドをやっている方と一緒に、麓坊中から古坊中にかけて歩いてみようというのをこの間やりました。やってみているんですけども、ちょっともう既に遺跡がよく分からなくなっていることだったり、今ここどうなったのかなということを私たちも分からない中で歩いてみたということがありました。これをストーリーでもっと知ることができたら、そういうのを今度阿蘇くじゅう国立公園に来てくださった方にも伝えていけるんじゃないかっと思います。特に今、欧米の方でよく歩いていらっしゃる方、見かけることもあると思うんですけど、結構歩くということのニーズが高かったりもするので、歩いて歴史と自然を感じていただきたい。そういうことで阿蘇を知ってもらって、好きになってもらえればいいかなと思っています。
本当に私は全然火山信仰のこと全く何も知らない人間なので、もう本当に今日既に勉強させてもらっていますけども、皆さんと一緒に学ばせていただければと思っているところです。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) 笠原様ありがとうございました。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) では最後に、阿蘇の世界文化遺産登録推進の観点から熊本県の沖様、よろしくお願いいたします。
〇熊本県企画振興部政策審議監(沖圭一郎氏) 皆さん、こんにちは。県庁の沖と言います。よろしくお願いします。私は福岡県の大牟田市の生まれで、親父が三井鉱山に勤めていた関係で、三井鉱山の保養所が乙姫にありまして、小さい頃に毎年阿蘇に来るのを楽しみにしておりました。そういった縁もあって熊本県庁に入庁しまして、ちょうど地震の時から、その時は阿蘇地域振興局の次長として赴任いたしました。それから阿蘇にずっと何らかの関わりをさせていただいているというような状況でございます。
世界遺産のことについて、最初にちょっとお話をさせていただければと思います。世界遺産なんですけれども、ここが世界遺産、ここにみんなで今、県と地元の阿蘇市長さんを始め、みんなでここを今目指して頑張っているという状況であります。阿蘇は今ここにあります。ここが世界遺産で、ここがその手前の暫定一覧表というやつで、ここがいわゆる国は文化庁にあります文化遺産ですね、文化庁のリストということになってまいります。ただ、そのまだ手前に阿蘇はあるということで、今ついにここの暫定一覧表の中にどの資産を下から上げていくかという議論がついに始まったというところであります。今年ここにいた佐渡金山が上にぽんといって世界遺産になりましたので、ついに次にここにどれを入れるかという議論が今は始まっていると、そこに私どもとしては、この阿蘇をぜひまず国の遺産に入れて、将来的には世界遺産に持っていくというような活動をいたしております。
この世界遺産になるには大きく2つの要件がございまして、まず一つは、その世界遺産としての価値があるかどうかということが問われます。それともう一つは、その価値をどうやって保護していくのかという2つが大きく問われるということであります。今日のシンポジウムは、そういう面からすると、阿蘇の価値、阿蘇の価値を深めるということで非常に重要なシンポジウムであるというふうに考えております。
それから、地元の盛り上がりという言葉がすごく見られますので、そういう意味からしても大切なシンポジウムと思っております。
阿蘇の価値は、今、4つで整理をしております。阿蘇の特徴としておりますけども、一つが先ほど環境省の方からもありましたけれども、世界最大級規模のカルデラ地形、これが非常にきれいな形で残っていると、カルデラが。これがまず非常に価値がある。それから、2つ目が土地利用形態というのがあって、阿蘇の場合は外輪山の上の方から先に草原が広がっています。遥かな草原が広がっておって、その途中に森林があって、住宅があって、カルデラ床とか言いますけれども、下のところに田畑があるといった、その中央火口給を中心とした同心円状にその土地利用形態が広がっているというのが非常に珍しくて、価値があると。
それから、特徴3で、先ほど草地については話がありましたけれども、この阿蘇の草原、これがすごく人の手によって管理してきたこの草地、これが価値が特にある。
それから、宮地とかに行くと、地下水があちこちで湧き出ている。地下水の源、水の源でもあるという、そこの水を利用した農業のシステム、そういったものが非常に価値があるとしております。
今日のテーマとも関係しますが、特徴4として、自然と人間の関わりに由来する伝説、祭祀、信仰、伝承、こういったものがやはり阿蘇の大きな価値の一つということであります。この4つを磨きをかけていくということが今言われておりまして、今日のシンポジウムはここの特徴4の、しかもここの信仰のところに当たると。これを掘り出すというか、もっと深めて、そうすることで阿蘇の価値がより高まって、今も既に国立公園ということで、日本の宝でありますけれども、さらに世界の宝にしていこうということでございます。
私、実は山登りが大好きで、我が国の活火山の分布でございますけれども、活火山が気象庁のデータでいくと、今、日本には111活火山があります。
黄色で塗っているのが私が登った山々でございまして、111のうち40の活火山に登りました。それで、感じること。特にどこの山でも、山岳信仰、火口信仰がやはり故郷の山というか、目立つ山なので、信仰形態があるんですけれども、その中で私が、特にここは信仰が盛んだと感じたのをいくつかピックアップしてみました。
私が、すみません独断と偏見で勝手にピックアップしましたけれども、特に山岳信仰が盛んだなと、登った中で感じた山々でございます。一番左が山の名前ですけれども、大体ですね、もともと多分山自体がどこも御神体だったんだろうというふうに想像されるような説明とかがよくあります。
やはりその山の近くには主な神社がありまして、主な神様はいろいろな各種神様がいろいろおられるわけなんですけれども、場所はこういった場所で、備考のところに書いてありますけれども、どこの神社もやはり各地の一の宮ということになっております。
日光二荒山神社、あるいは富士山の本宮浅間大社は世界遺産にもなっているというようなところであります。そういった一つ書き出して特徴的に思ったのを、一番右側に書いておりますけれども、やはり山岳信仰、特に修験道というか、そういう活動が非常に昔から盛んだったんだろうなというふうに思いました。
名前も何とか大権現。権現というのは何か仮に出てきた形ということで、本地というのが阿弥陀仏とか仏さんであるそうですけれども、そういったふうに神仏が習合しているという形、神仏だけでなくて、実は中国由来の道教とか、日本古来の山岳信仰とか、いろいろなものが習合しているという形態があるみたいでございまして、それぞれの山ごとに独自に特徴があるということでございます。
一番下の阿蘇山のところを見ていただきますと、阿蘇の場合は御承知のとおり、阿蘇神社という大きい信仰形態がありますけども、そのほかにも先ほどから先生方の御発表のとおり、一番右に西の巌殿、坊中あるいは阿蘇講といった、こういった信仰がございます。
こういった部分をやはりもっと掘り起こして見える形にしていって、そうすることで阿蘇価値はますます上がってくるんじゃないかというふうに思っております。さっき佐藤先生のこの写真、航空写真みたいなのもありましたし、島津先生のいろいろな発表もございました。
ここの山岳信仰、あるいは火山信仰といった部分が、まだ阿蘇は世にあまり伝わっていない部分が数多くあるんだろうと思っております。この辺を整理して、目に見える形にして発信していくことで、阿蘇の価値はさらに高まって、先ほどの世界遺産の価値にもつながって、世界中でまだ今以上に有名になるポテンシャルがあると思っています。
冒頭挨拶で阿蘇市長は、日本国の中では8公園の中で1位。しかし世界の外国の方は8公園の中で8位ということでございましたけれども、これをぜひ世界遺産にして価値を高めて、外国の人からも1位と、よりたくさん来てもらいますように、いつかは世界中の人がいつかは阿蘇に行ってみたいと、阿蘇が世界中の憧れの地にしていきたいというふうに思って、今、阿蘇郡市、県庁一丸となって頑張っております。
今日はその一つ、貴重なシンポジウムで、また地元の盛り上がりを見せていきながら、価値を高めながら、そういうことを進めていく中で、また世界遺産が近づいていくのかなと思っております。
私の方からのご報告は以上でございます。よろしくお願いします。
阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏)沖様ありがとうございました。
5名の皆様、本来ならば多分お一人お一人ずつ独立した講演ができるぐらい、非常に内容が濃いお話をしていただきまして、非常に駆け足ではあったのですが、それぞれから話題提供ということでさせていただきました。

パネルディスカッション
阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) では早速ですが、引き続きましてパネルディスカッションの方に入りたいと思います。
5名の方からお話をしていただきまして、ある程度阿蘇山の信仰をめぐる歴史的経過というのがお分かりになったかと思います。一応そのお話を取りまとめたという形で、簡単な年表を作らせていただきました。
会場に来られている方々の皆様の共通理解として、まず理解をしていただければと思いますが、ちょっと今回お話には触れられていませんでしたか、やはりここは阿蘇火山博物館という会場でもございますので、一応阿蘇山の歴史をまず冒頭振り返りますと、阿蘇山の活動がそもそも始まったのは27万年前からの巨大な噴火活動から現在に至るというところ。過去27万年前、14万年前、12万年前、そして最後の9万年前、大規模な火砕流噴火を繰り返しまして、最後の9万年前、これは火山地質学の方で阿蘇4火砕流と言いますけども、九州全土が火砕流で覆われるぐらいの非常に巨大な噴火が起こりまして、今現在の阿蘇カルデラの形成につながっております。
それ以降、地質調査で分かっているのが、9万年以降、カルデラの窪地の中に湖が出現し、現在の中央火口丘群の活動が始まって、いわゆる阿蘇山といいます、今ここ阿蘇火山博物館のあるところ、阿蘇五岳の中央火口丘群が徐々に出来上がってきたと。
そして今はススキを主体とした草原が広がっていますが、3万年前ぐらいまで阿蘇外輪山上には、ササ属を種類とした草原が広がっていたということが分かっております。
さらに、約1万3,000年前には、先程言った今もあるススキを主体とした草原がどうもこの時期に出現した。
約6,000年前、これは縄文時代になりますが、この頃までにはカルデラ内の湖が消失して、徐々にカルデラの中に人が住み始めたようです。そして記録として阿蘇神社の創建、これは神社さんの伝承で言えば西暦でいうと紀元前282年、孝霊天皇9年には阿蘇神社が創立ということで伝えられております。
5世紀初めですね。阿蘇神社の関連ということで、神社の神様である健磐龍命につながる系譜を持ち、阿蘇のこの地域を治めた「阿蘇の君」という豪族が古事記・日本書紀に記されているのですが、そのお墓と想定される熊本でも最大級の前方後円墳の長目塚古墳が5世紀初めごろに阿蘇谷に造られています。
6世紀になると、これもよく気象庁の阿蘇火山噴火の履歴で一番最初に取り上げられているんですが、欽明天皇14年、西暦552年に「阿蘇山火起こりて天に接す」とあります。これは、阿蘇山上神社社記による伝承なんですが、これが伝わっております。どうもこの頃から阿蘇火山の噴火の記録というのが残されています。
時代が新しくなるにつれて島津先生、佐藤先生のお話でありました「隋書倭国伝」。中国の歴史書に日本の火山で初めて海外に紹介された事例として、阿蘇山という名前が出てきて、しかもその阿蘇山では祭祀が行われているという記述が残されているんですね。
さらに仏教側の坊中の由来としては、これは西巌殿寺側の由来によれば、神亀3年、西暦726年天竺の最栄讀師が山頂で奉経したというのが伝えられています。一方で、阿蘇神社側の由来によれば、天養元年、西暦1144年に比叡山の僧の最栄が阿蘇大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山頂で奉経を始めた。古坊中、いわゆる山上の仏教集団の由来については2説あるというところが現状であります。
16世紀になると、薩摩の島津氏が熊本に侵攻しまして、阿蘇大宮司、阿蘇を治めた阿蘇氏もこの島津に敗退しまして、それの影響を受けて山上の坊中、宗教集団も離散したと伝えられています。
その後、17世紀初めの頃に加藤清正が阿蘇神社と坊中を復興して、山上の坊中集団は麓の今のある黒川村、いわゆる今の坊中に再興したということです。
今回あまり触れられませんでしたが、その後19世紀になって、近代以降、明治政府の政策として実施された神仏分離令と寺領返還によりまして、麓坊中にありました各坊のお寺は廃寺となります。
廃寺になった後、明治4年にそれまで山上にあった本堂を麓に下ろしまして、それが現在の西巖殿寺の由来となります。この神仏分離令で麓にありました坊中のお寺さんは廃寺になり、一旦そこで中世以来のお寺としての歴史が終わるんですけども、この麓の方に本堂を下ろし再興したということで、西巌殿寺というお寺として新たに再興したということですね。
そして昭和9年のまさしく12月4日今日、阿蘇国立公園に指定をされたという歴史があるというところで、一応共通理解として皆様にご理解をいただければと思います。
では、それぞれパネルディスカッションということで、ちょっとテーマを挙げながら、5名の皆様にお話をしていただければと思います。まず最初にテーマとして、信仰地の特徴として、ちょっとお話をまたディスカッションしていただければと思います。これに関しましては、島津先生、佐藤先生、池浦様に、先程のお話の補足を含めて、ちょっと言い足りないことだとか、あとそれぞれの皆さん御三名が研究される中で、阿蘇における信仰とその他の地域における信仰だとか、あと歴史的なところで違いや特徴とかがあればですね、それぞれお話をしていただければと思います。
まず島津先生から何かあればお願いいたします。

〇肥後考古学会会長(島津義昭氏) 修験道の話が出てきましたので、二つのことを申し上げますと、日本の修験道では、基本的に聖地は林とか森の中のです。ところが阿蘇山修験道の聖地、古坊中には全く木がない。この点非常に特異です。日本の修験道の聖地の中で、阿蘇の古坊中ほど木もなくて、何もない草原地域にあるという場所はありません。
私、古坊中の調査をしていて非常に疑問に思いましたのは、こういうところで水なんかどうしたのだろうと思いました。古い記録を見てみたら、その先に井戸があったと書いてありますので、やっぱりこういう古坊中にしても、水は常時配給されていたと思います。これが一つ。
もう一つは、修験の聖地が衰退してしまうのは、歴史的にはいくつも例がありますけれども、阿蘇の古坊中、阿蘇修験については、山頂は滅んでしまっても、幸いその麓に坊ができ、継続はされております。つまり精神的にはまだ伝統を引き継ぐ方はいらっしゃるのです。昔やっておった、こんにちは峰入りとか修行の行事が絶えてしまったことが、非常に残念だというふうに思います。ぜひこの機会に、特異な修験であった阿蘇の修験を、何らかの格好で、再現・復活ができればいいというふうに私個人としては思っております。以上です。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) ありがとうございます。佐藤征子先生の方から何かございますでしょうか。
〇元熊本県文化財保護審議会委員(佐藤征子氏) 報告では峰入りについて全く触れませんでした。峰入りは、古坊中、山上時代から行っていまして、阿蘇の御札を配って回っていました。山上時代の峰入りの記録はありませんが、麓に降りてからの峰入りの記録は残っております。峰入りのコースが確認できますので、新たな観光資源と言ったら変ですけれども、健康には歩くことというのは大事ですから、峰入りコースといったものを再確認して、多くの方に体験して頂いたらと思います。峰入りは決められた地域を廻って、その地域の堂舎にお参りしながら峰入りをしていたわけです。峰入り時には、多くの人が見物に来ています。菊池の隈府の「嶋屋」という屋号の商人が日記に家族で峰入りの見物に出かけたことを記しています。峰入りの道筋の村人が峰入りの一行に手を合わせて拝んでいるという峰入りの記録もあります。できれば峰入りのコースを再確認して、多くの方に体験していただけたらと思っています。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございます。池浦さんも。
阿蘇神社権祢宜・文化財担当(池浦秀隆氏 )私の方からは、まず先ほどは神仏の両側面をざっくりお話しさせていただいたつもりでありますけれども、阿蘇の場合ですと、神と仏が棲み分けている、というところに大きな特徴があろうかと思います。その棲み分けを可能にしたのは何かということでありますが、そこには両拠点を支配していた阿蘇大宮司の存在もあります。
明治を迎えますと、仏教の格好をしていた方が、今度は神社の人に変わっていくことが結構あります。場所の話でいうと、同じ境内の中に両方の拠点が共存していたところが、明治になって仏教の建物がなくなってしまったところもありますが、それまでは建物をシェアしていたところもたまにあるようです。
ところが阿蘇の場合だと、神仏が棲み分けていて、両方の拠点がそれぞれにあって、宗教の対象にしている火口が共通していて、そういう意味では、結構分かりやすくて面白いと思うところであります。仏教と神社それぞれの捉え方は違う部分はあると思いますが、共通の自然物を対象にしていたという意味では、とても興味深い事例だと思っているところであります。
最後のページの方で少しお話しさせていただいた「信仰と振興」という同音異義語の話でありますけれども、それが今、簡単に自動車とか交通手段を使って、聖域の火口に簡単に誰でも行けるようになったことであります。地域振興のための価値が高まったという話をしましたけれども、私はこれまで続いてきた宗教的な意味合いでの信仰というものと、地域の振興というものをあまり混同しないようにすべきだと思っているところです。
信仰には信仰の特色があって、それをどのように解釈するか、どのように活用するかということを、よくよく歴史性を踏まえて、それが損なわないようなやり方で地域振興に結びついていただきたいと思っているところです。
とりあえずこれで一旦コメントさせていただきます。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございます。今3名の方のお話を伺った上で、島津先生と佐藤征子先生のお話もありましたが、もともとやはり信仰があっていて、特に峰入りを含めて、昔からの活動があって、古坊中そのものは完全に今ではなくなってしまっているんですけど、その伝統は麓坊中に引き継がれ、今も西巖殿寺という形でお寺の方は継承されていると。
お二方からもお話がありましたが、その歴史性とか信仰でだいぶ今、社会情勢も変わってきて、昔からの信仰だとか宗教だとか、そういったところがなかなか衰退をしているといいますか、ちょっと日常的なところから遠くなっているという現状は確かにあります。佐藤先生が御紹介されたかつて行われていた峰入りなんかもですね、かつてはお参り、阿蘇参りも含めて非常に多くの方々が、いろんな阿蘇の中を廻られて、お参りをされていたというのがあるんですが、今はなかなか難しくて。そして数年前のコロナですよね。ああいったところでかなりそういう活動が非常に低調になっているという現状がある。ただその一方、やはりそれを大事にしたい、継承していきたいというお言葉があったかと思います。
一方で、池浦様の方から、いわゆる宗教的な信仰と山上をめぐる観光活用を含めた地域振興というところの兼ね合いで、そこをやっぱりちゃんとですね、それぞれ混同せずに、峻別をしながらというところでお話があったかと思います。
私自身、阿蘇をめぐる現状と、そこが非常に他の地域とは違っていて、信仰性、聖域としての信仰性と、他の火山と比べて池浦様のお話もあったように、非常に行きやすい。かつて謳い文句でありましたが、ハイヒールでも簡単に行けるような格好という感じで、非常に行きやすいというところが特徴でもある。ただ一方で信仰は古来からあって大事にされているというところで、そこをどう経済的なところで、地域振興の中で活かすか、これちょっと最後の方にまとめの方で討論したいと思いますが、そこが一つ課題になってくるかなと思っております。

では次に、環境省の笠原様と県の沖様の方に、国立公園あるいは世界文化遺産登録の要素として、国立公園と世界文化遺産のところで、改めて先ほどのお話で補足あるいは付け加えるところがあれば、それでお話をしていただければと思います。
まず、笠原さん、お願いいたします。
阿蘇くじゅう国立公園管理事務所長(笠原綾氏) ありがとうございます。特に付け加えることを思いつきはしないですけれども、やはり池浦さんからのお話にあったとおりで、何でもかんでもいっぱいの人が来ればいいとはあまり思ってはいなくて、やっぱりその阿蘇の自然だったり、文化だったり、歴史だったりをちゃんと理解してくれる人に来てほしいなという思いがあります。そういう思いがないと、例えばゴミを残していったりとか、地域の方に迷惑をかけてしまうような訪問のされ方をしたりということにもつながってきてしまうと思うので、旅行者の方自身がその地域に対してちゃんと敬意を払ってくれるような、それは恐らくその火山信仰の話だけでなくても、牛に触ってしまうとか、そういうことを見られているとか、そういうことを理解していただけるように、国立公園としても環境省としても、阿蘇はこういうところだからこういうことをしないでほしい、こういうふうにしてほしいというのを発信していければいいかなと思っています。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございます。まさに今、特にコロナ移行、阿蘇はオーバーーリズムという形で非常に阿蘇山上も、自動車の渋滞が続いたりとかして、そういった面で非常にたくさんの人が訪れる場所になっている。これは観光的側面、経済的な側面には非常に嬉しい反面、あまりにもたくさんのお客様が来すぎると様々な問題が起きて、先ほどの信仰とか文化とか歴史というのがわからないままとりあえずぱっと来てぱっと帰られるとかですね。あと放牧してある牛に触ってしまったりだとか、あとは自然公園として、阿蘇山上を含め、阿蘇には非常に希少動植物がたくさんあるわけですけども、それを無断で取っていってしまったりとか、そういった問題が起きたりとか、そういうことが可能性としてあるのです。
ただ一方、そういった大量なお客さん、たくさん来るお客さんという現状はあるんですけども、やはり訪れる方々にはしっかりと阿蘇の自然の魅力だとか、そこにある歴史文化をしっかりと理解していただいて、国立公園を楽しんでいただきたいということだったと思います。
それに対して、県の沖さん、目指す世界遺産というところで、ちょっと先ほどお話がありましたオーバーーリズムとかいうお話もありましたが、今後阿蘇の世界文化遺産を進めていく上で、何か補足とかお話があればお願いいたします。
〇熊本県企画振興部政策審議監(沖圭一郎氏) いや、まさにそのオーバーーリズムは今後の課題だとは思っております。
例えば私、今年の夏にロッキー山脈に行ってきたんですけど、バンフ国立公園というか世界遺産なんですけども、料金を徴収するシステムがきちっと成り立っておって、やはりきれいな美しい自然景観を将来に保っていくためには、何らかのやっぱりそういう負担をどうしていくのか、そういったものを今後海外のそういう事例も参考にしながら考えていく必要があるんじゃないかと思っております。
また、信仰と振興は、本当にそこはきちっと峻別しながら、もともとの信じる方の信仰、それを大切に守りながら、やはり地域の今の人々の暮らしの向上につながる振興も合わせて推進するというか、そういう両方と言ったらあれですかね。両にらみで実現を目指していくというのは必要なのじゃないかなと思っております。
世界遺産のさっきの価値の話からいきますと、池浦さんの話にもありましたように、阿蘇はやはり山岳信仰、信仰の形態も非常に独特な部分があるんじゃないかと思っておりまして、そのきれいに棲み分けができていたというようなところが特徴の一つなんじゃないかなと思います。そういう特徴を磨いていけば、また阿蘇の独特な価値も上がっていくんじゃないかなというふうに思っております。また、他の火山は火口鎮祭というか、隋書というのに祷祭というのがありましたけども、そういった火山そのものを鎮めるようなお祭りというのは、他のところはあまり見たことがなくてですね、今、阿蘇で行われている火口鎮祭というのも非常に珍しい特徴のある形態なんじゃないかなと思っております。そういった特徴を磨くことで、また世界遺産も近づいてくるんじゃないかなと思っております。
以上です。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございます。ちょっと時間も迫ってきておりますので、最後にというわけではないんですけども、今5名の方にお話をしていただきまして、今後の阿蘇山を含め、阿蘇の振興というところで簡単になんですが、それぞれのお立場から、今後の阿蘇の地域振興、阿蘇山の地域振興にかける期待だとか、こうしたらいいんじゃないかというご提案があれば、ちょっと簡単に一言ずつ島津先生の方からお話ししていただければと思います。
お願いいたします。
〇肥後考古学会会長(島津義昭氏) お話いたしましたように、古坊中に関係する遺物は、阿蘇郡内にかなり散らばっています。皆さんご承知のように古坊中の立看板の横にも石の五輪の塔がおいてあります。あの類は麓にもありまして、例えば阿蘇市牧の神社の境内に古坊中から持ってきた石造物がありますので、できればそれらの貴重な遺物(石造物)を何らかの組織が中心になって、記録をしていただければいいと思います。
それと、同じように、阿蘇の修験について書いた文献(古文書・古記録)はまだまだいくつも残っています。とくにこれは麓坊中の分です。個人個人で、各家がそれを記録することはできませんので、できれば公的な機関でしていただければいいと思います。
最後に、阿蘇山の観光の面で一つ提案ですけれども、これは皆さんご承知のように、隣の大韓民国ではこういう地域の名所とか、山道を歩くという「オルレ」(올레트레일 自然を五感で感じ。自分のペースで回る旅)という運動が非常に盛んです。
例えばチェジュ島(済州島)のハルラ山(漢拏山)なんかオルレの聖地です。当然、阿蘇山もそういうことになると思います。「九州オルレ」のコースに位置付けていただきたいと思います。
また何より、世界遺産への早期の選定が望まれます。阿蘇山についての研究、活用について、皆で知恵を出し合い「世界の阿蘇」の価値を高めていくことが必要だと思います。以上です。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございます。次に佐藤征子先生、何かございますでしょうか。
〇元熊本県文化財保護審議会委員(佐藤征子氏) 先ほども申しましたけど、阿蘇の峰入りのコースというのは大体分かっています。福岡の方まで廻っています。案内板などを整備して頂けたらと思います。記録がありますので、辿っていくことは可能です。どこの宮で泊まったなども書いてあります。全コースを廻るのは大変でも峰入りの一部を廻ってみようということになると思います。関係者の方が努力して頂けたらありがたいと思っております。よろしくお願いいたします。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございます。次に池浦さん。
阿蘇神社権祢宜・文化財担当(池浦秀隆氏) 私から最後に2点ほどお話しさせていただきたいのですが、私は神社の中にいる立場ではありますけれども、今、阿蘇神社の山上神社は無人です。今そこで何かしているわけでもなくて、古びてしまった建物がただありまして、随分傷んでしまったから、熊本地震の後に部分的に社殿を解体撤去して、今は拝殿だけ残っている状況になっております。
もともと明治になるまでは、そこは仏教側の山上本堂があった場所で、参詣者は仏教の人たちが受け入れていた、そうしたところであります。その後、仏教側の施設が廃止されましたから、そこが空いて山上神社がその後に建てられて、しばらくそこに神社側の人がずっと詰めていたわけです。昭和50年代の後半ぐらいまでは神社側の人がそこにいたのですが、その後もいろいろと阿蘇山上の事情、環境が変わって、現在も無人化している状況にあります。
つまり言いかえますと、近代を迎えたわけですけれども、江戸時代の状況にある意味戻った、ということが言えるかと思います。そういう意味では、本来の歴史的な神仏の拠点構造に戻ってしまった、と言えるように思っております。
その上で今、阿蘇山の信仰というもの、今日テーマですけれども、やはり仏教側の評価に比べて、神社側の評価の方がどうしても前面に出る傾向にあると思います。さきほど島津先生のお話にもありましたとおり、古坊中の発掘等も含めて、私が言う立場ではありませんが、もっと仏教側の歴史的な価値が評価されてよいのではないかと思っております。
もう1点が、火口というところは聖域ですよ、という話を神社側の者として言い過ぎた感じはありますけれども、実際に火口に簡単に行ける、当然そういう交通のインフラ整備は大事なことではありますけれども、火口を見学する行為を、もっと何か、もったいぶってもよいのでは、と思っているところです。そこにゲートを作って、別途に料金徴収して、ということを言うつもりはありませんけれども、火口という空間が、歴史的に特別の場所であることを、もっと何かしらの取り組みの中で表現できることができれば、より一層よいのではないかと思っているところであります。
私からは以上です。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございました。次に笠原さんお願いいたします。
阿蘇くじゅう国立公園管理事務所長(笠原綾氏) はい、ありがとうございます。国立公園は日本の宝という説明をさせていただいたんですけれども、まず地域の宝でありというところが最初に来ると思います。なので私も今、阿蘇市民ですので、地域住民として、阿蘇というものがそもそもどういう信仰があったのかということを、もっと地域の方々も知っていてかつ訪れる方も知れるような、そういうような環境が今後できていけばいいなというふうに思っています。
以上です。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございます。最後沖さんにお願いいたします。
〇熊本県企画振興部政策審議監(沖圭一郎氏) はい、私、世界遺産をぜひ成し遂げたいと思っておりますし、そういうためにもやはり地元でこういうシンポジウムを開催いただくとか、いろんな盛り上がりをもっとしていきたいなというふうに思っております。火山の信仰の文化とか、まだまだ阿蘇には埋もれている貴重なものがたくさんあるんじゃないかなと思っております。このようなものを掘り起こして磨いてPRしていって、本当に世界中の人が憧れる阿蘇にぜひしていきたいなというふうに思っています。
よろしいでしょうか。

阿蘇市教育委員会学芸員(宮本利邦氏) はい、ありがとうございました。かなり時間を超過をいたしまして、ここで最後のまとめということでさせていただきたいと思います。
かなり足早に進めてまいりました。最後、5名の方からお話をいただきましたが、まとめますとですね、やはり阿蘇には非常にたくさんのまだまだ埋もれたものがあると。それは今日お話しいただきました山上の歴史ですね。こういったものをまだまだ掘り返すことがあるんじゃないかと。今わかっているものでも、峰入りだとかですね、かつて行われて、今記録に残っているもの、これを改めてまたクローズアップして、今の現代的な翻訳をして、ある種観光活用ができるのではないかというお話があったかと思います。
もう1つは、火口ですね。池浦さまからもお話があったかと思いますが、非常に行きやすいということであるんですけども、やはり観光という側面でいけば、ある種の非日常性も非常に大事で、やっぱり特別感といいますか、そういったところも演出として必要じゃないかなというふうなことかなと思います。
あと、最後ですね、国立公園は90周年ということで今年迎えて、これからは熊本と阿蘇郡市としては世界文化遺産を目指したいということで、これからもっともっと埋もれている歴史を掘り起こしながら、国立公園今後100年、それ150周年とか、どんどん歴史を重ねていき、もし可能ならば世界遺産にも認めていただいて、海外にも認めていただける阿蘇ということを実現できればなというふうに思います。
非常に足早でしたが、パネルディスカッションをこれで終了したいと思います。
本日はどうもありがとうございました。
5名の皆様、どうもありがとうございました。
                                    終了